後醍醐天皇の側近、静謐な日野俊基卿の墓。
日野俊基卿墓の特徴
日野俊基卿の墓は、後醍醐天皇のお公家さんとして知られています。
葛原岡神社のすぐ近くに位置し、訪問者に厳かな雰囲気を提供しています。
鎌倉時代末期の歴史を感じることができる隠れた名所です。
後醍醐天皇に仕えたお公家さん正中の変と元弘の乱に参加したことを咎められ鎌倉幕府に葛原岡にて処刑されましたすぐ近くにある葛原岡神社は日野俊基を神として祀る神社となっております。
葛原岡神社の南側に俊基卿御墓がありました。日野俊基卿は、後醍醐天皇の側近として鎌倉時代末期に倒幕のため活躍しましたが、元弘の変(1332)で幕府に捕らわれ、建武中興の成功を見ずに、この葛原が岡で処刑された方です。御墓は宝篋印塔で瑞垣の門扉には日野家 「家紋「鶴丸」が刻まれています。 俊基卿御墓は、昭和二年四月八日に国指定史跡になったそうです。
日野俊基は後醍醐天皇の側近として元弘元年(1331年)に討幕計画に加わったが、発覚して捕らえられて京都から鎌倉に護送され、ここ葛原ヶ岡で処刑された。500年以上も後に王政復古を成し遂げた明治政府の国策により、葛原岡神社が創建され、ご当人は神様に祭り上げられた。地下の俊基も「何を今さら・・・」とさすがに苦笑してるだろう。神社のホームページを見ると、「当時、鎌倉幕府は悪政を続けており、後醍醐天皇は政治を正しい姿へと導くため、幕府を打倒する決意を固められ・・・」などと戦前の歴史観そのまま。俊基は悲運の人だが、後の世まで政治利用されるのは本意ではないだろう。墓所は国指定史跡。
葛原岡神社の近くにあります二度も京から連れて来られさすがに二度は帰れずじまい。
鎌倉幕府倒幕を計画した後醍醐天皇の命を受けたが元弘の乱で捕えられ、ここの近くで処刑されたそうです。お墓には今もお花が生けられています。
厳かな雰囲気に静かな佇まいでした。
後醍醐天皇の鎌倉討伐にあたり処刑された日野氏のお墓。
日野俊基は鎌倉時代後期の公家で、1318年(文保2年)に即位した後醍醐天皇に仕え鎌倉幕府討伐の謀議に加わり葛原岡の地で処刑されました。その後、倒幕の功労者として評価が上がり墓所のある地は1887年(明治20年)には葛原岡神社が創建されたそうです。墓所は1927年(昭和2年)に国指定の史跡となっています。
60.日野俊基の墓所在地:神奈川県鎌倉市梶原5-9-1 葛原岡神社境内アクセスJR鎌倉駅西口、徒歩約25分。鎌倉駅西口~寿福寺~英勝寺~横須賀線沿いに進み~海蔵寺へ向かいます~その途中に化粧坂入口の案内板あり、左のその道を進みます~化粧坂を登りきると~葛原岡神社の案内板あります。現在は源氏山公園の一角に位置し、源頼朝像からも徒歩数分の場所となっている。由来・日野俊基は、1324年(正中元年)、後醍醐天皇の倒幕計画に参加した罪で捕らえられ、日野資朝とともに鎌倉に護送された(正中の変)。この時、俊基は許されたが、資朝は翌年佐渡に流された。・後醍醐天皇は、万里小路宣房を鎌倉へ派遣し、「告文」をもって弁明したことにより罪に問われなかった。「告文」とは、天皇が告げ申す文で、武家に出すことは前代未聞だったという。・1331年(元弘元年)、後醍醐天皇は再度倒幕計画を企てるが、これが露見し、日野俊基は再び捕らえられ、翌年6月3日、鎌倉に入ることなく仮粧坂の葛原ヶ岡で処刑された(元弘の変)。同じ頃、佐渡に流されていた日野資朝も処刑され、後醍醐天皇は隠岐に流された。・約1年後には大塔宮 護良親王(後醍醐天皇の子)を戴いた楠木正成、新田義貞らの活躍によって鎌倉幕府は滅亡しました。☆ 明治天皇は日野俊基の活躍を明治維新の先駆けとして評価され、従三位を贈り、葛原岡に神社を創建しました。葛原岡神社は、由比ケ浜の総鎮守、開運の神様、学問の神様として信仰を集めます。境内には大黒様を祀る縁結び石もあり、カップルに人気です。
名前 |
日野俊基卿墓 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0467-45-9002 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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葛原岡神社のすぐ近くにある鎌倉時代末期に後醍醐天皇とともに倒幕運動に関与した日野俊基卿の墓です。