武田信玄の激闘跡、情緒豊かに。
上田原古戦場の碑の特徴
武田晴信と村上義清が戦った歴史的な戦場跡です。
高台から見える景色は、春の桜シーズンに特に美しいです。
駐車場が狭いので訪問時は注意が必要です。
良く歩き回りました。次回は信玄道を散策したいと思ってます。
貴重な史跡です。
石久摩神社境内に大きな石碑があります。神社裏を進んで下に降りて行くと田んぼの中に上田原の戦いの無名戦士の墓があります。最初倉升山に武田軍が布陣したようですが、石久摩神社辺りが武田晴信の本陣跡?でしょうか、段丘上にあり神社裏から、村上軍が布陣した岩鼻や天白城が綺麗に望めます。28歳の若き武田晴信初の負け戦で自身も負傷し、板垣信形 甘利虎泰などの重臣を失い、誇張もあるかもですが両軍の戦死者が4千〜6千の激闘で、茫然自失したのか戦場に40日間留まったそうです。
隠れた桜の名所?我が家から徒歩数分の場所にあるこちら。赤い鳥居をくぐって、独り占めの桜。1年に1度だけです、行くの、はい。
武田晴信と村上義清が戦い、武田晴信が敗れた事で有名な戦場跡。神社境内に上田原古戦場碑がある。
情緒のある場所です 高台になっているので景色は良いかと。 夜はやめたほうがいい。
駐車場が狭いので、停めれないかもしれません。
私が川辺小学校に通っていた頃、こちらの場所の前を運動会の長距離走で走ったかもしれません。
諏訪・佐久地方をほぼ平定し、北信濃進出をめざす武田晴信(信玄公)は、天文17年(1548)2月、諏訪から大軍を率いて大門峠を越え小県郡に攻め込みました。東信濃の勇将・村上義清は葛尾城(かつらおじょう・坂城町)を出陣し、両軍は千曲川に接する上田原で激突した。この合戦は、村上、武田両軍合わせて戦死者は約4千人あるいは6千人ともいわれ、武田軍の板垣信方(いたがきのぶかた)、甘利虎泰(あまりとらやす)ら重臣が討ち死に、晴信も傷を負っています。井上靖の小説『風林火山』では、武田軍の勝利--として描かれていますが、甲斐の記録『妙法寺記』に「甲州人数打劣テ」と記されたように、史実では地の利を得た村上軍によって無敵といわれた武田軍が初めて大敗を喫した負け戦でした。激戦となった一帯は、県営球場を中心に古戦場公園が整備され、近隣には板垣信方の墓や村上方重臣らの墓が建っている。また、物見山・合図山・兵糧山・御陣ヶ原・味方原など布陣にまつわる地名が今も残されている。
名前 |
上田原古戦場の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.1 |
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上田原合戦前後天文12年9月 武田晴信(信玄)佐久郡に侵略同15年5月 武田晴信佐久郡内山城を攻めとる同16年8月佐久郡浅間山山麓小田井原で武田軍関東管領上杉憲政の軍を破る同年8月 武田晴信佐久郡志賀城を攻めとる同17年2月1日 武田晴信甲府を出陣同年2月14日 村上義清と武田晴信上田原で激戦信玄初めて敗戦の憂きめに遭う武田軍の将 板垣信方 甘利虎泰ら討死村上軍の将 屋代源五 小島權兵衛 雨宮刑部ら討死同年3月5日 武田晴信諏訪郡上原城へ退く同年4月 村上義清佐久に侵入諸城を攻めとる同年7月 武田晴信千曲郡塩尻峠で小笠原長時(信濃国主)の軍を破る同年8月より 9月までに晴信佐久諸城を取返す同19年9月 武田晴信 村上義清の前線基地砥石城を攻めたが大打撃を受け撤退同20年5月 武田軍の先鋒真田幸隆砥石城攻略同22年4月 葛尾城落城村上義清越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り落ち延びる昭和44年 上田原古戦場保存委員会。