壬申の乱ゆかりの三本杉。
自害峰の三本杉の特徴
関ヶ原の合戦だけでなく、壬申の乱にも関連する歴史的なスポットです。
大友皇子の首を埋葬した伝説の場所として知られています。
新幹線からも見える、アクセスが難しいが貴重な歴史的な場所です。
階段を上り、少しいくと、木が生い茂り、三杉が左手に出てきます。神秘的でした。ここで自害したのではなく、頭が葬られていると伝わる弘文天皇御陵候補地です。負:大友皇子(天智天皇の第一皇子:弘文天皇):壬申の乱で敗戦し自害勝:大海人皇子:(天智天皇の皇弟:後の天武天皇)天智天皇死後、弘文天皇として即位(実際即位したかは不明)、天智天皇弟の大海人皇子(のちの天武天皇)のクーデターで壬申の乱がおこり、追い詰められ、大津の長等山で自害。大友皇子方の将、村国男依は、その首を持って大友皇子本営の「不破の野上行宮」に凱旋し、大友皇子の御首は首実検の後、地元の人々が貰い受けこの丘に葬られたそうです。そのしるしにこの場所に三本杉を植え、ここを「自害峯」としました。明治時代に宮内庁が調査を行い「弘文天皇御陵候補地」と認定されました。父親の天智天皇は、大化の改新、白村江の戦い、壬申の乱の原因を作った、額田王(弟の嫁を奪ったため、代わりに自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせた)と色々黒い、、、
壬申の乱で敗れた、大友皇子u003d弘文天皇の頭の埋葬地と云われています。
WikiにもUPしましたが関ヶ原1600年の合戦ばかりでなく壬申の乱672年の方の案内図も貰えたので大谷吉継公の陣から関ヶ原駅の方へ戻る途中ガードの下から川を渡る?少し山を登りかけた所に有りました。大津で自害した大友皇子(弘文天皇)の御首をこの地に埋め目印に三本杉を植えたとガイドブックに書かれていますがやや薄暗い所で写真ががいまひとつですが1400年以上経っているのに杉の木がもう一つ小さく若々しい気もしますが無念の慚愧のようなものは十分感じられます。
10/8 訪問根元に木ノ子が生えてました。三ヶ所。この杉は壬申の乱に由来します近くに車を停められます。そこから歩いて直ぐに階段があり、少し上れば三本杉は現れます。
壬申の乱の近江瀬田橋の戦いの後、自害した大友皇子の首を埋葬した場所と云われています。なので三本杉の周りは柵で囲まれていて「弘文天皇御陵候補地」とされています。大友皇子の陵は滋賀県にもあるようですが、もしここに大友皇子の首を埋葬したという伝承が真実ならば、こちらは大友皇子の首塚、滋賀県の方は胴塚と言えるかもしれませんね。壬申の乱の記録は勝者の側のものしかないので、今だに多くの謎があります。天智天皇の死後、大友皇子は即位したのか、していなかったのかもその一つで学者によって意見が分かれているようです。そんな謎の多い壬申の乱について従来の定説に疑問を投げかける遠山美都男著の『壬申の乱』は非常に興味深い内容です。壬申の乱に興味のある方には是非御一読をお薦めします。
不破関資料館の人に教えてもらって見学しました。教えてもらわなかったら知らなかったままです。行けてよかったです。
壬申の乱 ゆかりの三本杉。
よくわからん。
国道21号線から 養老へ抜ける広い道(戦国ロード)ができました 。そのため 三本杉に 入る道が分かりづらく なっていました。
名前 |
自害峰の三本杉 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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三本杉となっていますが、明治の頃の説明文を見ると1本杉となっています。たかだか100年前の文章なのですが。1本杉の下にとても古い石仏が2体あるとあります。古すぎて、わずかに頭、身体がわかる程度とあります。壬申の乱にまけ、近江で自死した弘文天皇のみしるしをここまで運んできて、天武天皇が首実験をし、そののちに里の人がこの場所に首をうめて、山下に八幡宮をつくり山之神として祀ったとあります。東南にあるすぐ近くの藤下若宮八幡神社がそれです。❶【参考 自害峰 不破の古跡 明治35年】自害峰は関ケ原村藤下にあります。中山道の南側にある小さな丘です。頂上に一本杉があります。遠望すれば、ひとまとまりの森のようです。根のまわり、1尺5寸あまりです。樹下にもっとも古い石仏が2体あります。もともと大昔の遺物であるので、わずかに頭体のかたちのあとがある程度です。此処は弘文天皇の御首級(みしるし)を埋めまいらせたる御陵墓であると云い伝わっています。壬申の乱に弘文天皇は近江にて御崩御しましたが、東軍が其の御首級(みしるし)をつたえ天武天皇の御實験に供し後、里民がこれを此処に葬り参らせ、わずかに山の神と称し、山下に八幡宮として祀ったという。明治8年12月2日 本県権令(県知事に次ぐ県の地方長官)小崎準氏が教部省に進達せられたる(ていしゅつした)本県小属 櫛田道古の考證書によれば、近江国滋賀郡園城寺の御陵はおそらくは御体を葬り奉り、此の藤下の自害峯は御頭を葬り奉り奉れるとある。予想を超えて真実に近いとおもわれる。とある[所在地] 関ケ原大字藤下にあり。