風情ある夜の石碑参道。
小林城跡の特徴
夜の風情あるライティングが美しい、魅力的なスポットです。
大津通側入口近くにある案内板でわかりやすく案内されています。
1532年から1555年までの歴史を感じられる場所です。
特に遺構はありませんが、表参道、裏参道の道路面に、それぞれ説明看板、石碑があります。両方見たい方はご注意下さい。
天文17年(1548年)牧氏によって築かれたと云われる。 牧若狭守長清は斯波義銀の従兄弟にあたる牧下野守長義(義清)の長子で、信長の妹小林殿を正室に迎えている。牧氏は前津小林に四千石を領していたが、元亀元年(1570年)牧長清が没して廃城となったとという。矢場町の交差点、矢場とんの向かい側、清浄寺の入り口付近に立て看板があるのみです。大津通り側にあります。
立て札だけ?
2022年8月中旬に行きました。説明板やネットの情報だと1548年から1570年頃まで現在の清浄寺のあたりにあったそうです、1548年、織田信秀が末森城を築いて古渡城から移った時、鎌倉街道の備えとして妹婿で守山・川村北城主である牧長義に小林城の築城を命じました。その後、牧長義は川村北城を廃してこの地に移り、長義の嫡男・長清が織田信秀の娘の『おとくの方』(お市の姉)を妻にもらい在城。美人のほまれ高かったおとくの方は、小林殿と呼ばれたそうです。牧長清は晩年に仏門に入り、長清の死後に小林城は廃城になりました。城の遺構は有りませんが、清浄寺の境内に牧長義夫妻、牧長清夫妻の墓と思われる四基の宝篋印塔があります。
夜は風情あるライティングになっています。
大津通側入口すぐの右側に案内板があります。
天文(1532年から1555年)のころ、尾張の守護・斯波氏の一族である牧長清が居城し、前津小林四千石を領した。長清は織田信長の妹を妻にして、織田氏とも縁が深かった。夫人は人々から親しみを込めて、小林殿と呼ばれていた。長清は老後、参禅して仏門に帰依し、その死後、小林城は廃城となった。城跡は、二代尾張藩主光友の剣術師範を務めた柳生新陰流の達人、柳生兵庫の屋敷地となった後、元禄年中(1688年から1704年)、ここに清浄寺が建てられた。
名前 |
小林城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒460-0011 愛知県名古屋市中区大須4丁目1−32 清浄寺 |
評価 |
3.2 |
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石碑のみありました。