葛西氏の遺構、寺池城探索!
保呂羽館跡の特徴
葛西氏によって築かれた城で歴史的価値がある。
郭や堀切の遺構がよく残っているため見応えがある。
平時の政庁と戦時の詰の城という独自の役割がある。
少しわかりづらいが、郭や堀切の遺構がよく残っている。
・葛西氏の本拠となった所である。もともと古くよりここには登米の豪族「登米行賢」の一族が住んでいた。前記、寺池城に居た葛西氏が永正合戦で没落した登米氏の古城を拡張し、移り住んだことになっている。しかし、その年代ははっきりしない。ともかく、天正十八年(1591)、宗家十七代葛西晴信の時代、一族はこの地に於て滅亡し、翌十九年、葛西大崎の一揆がここを拠点として火の手を挙げたのは間違いない(同年秋、須江山事件を以て終熄)。「古城書上」には、城主、葛西清重とあり、更に、草長伊豫、伊達若狭の居住を伝えている。草長、伊達氏は葛西氏以降の人々で、とくに伊達氏とは白石氏のことを意味する。白石氏も江戸初期一時ここの保呂羽城に住んだようだが、のち屋敷を下の市街地の中(前記寺池城のふもと)に構え、移り住んだ。ために、この城は完全なる廃城となった。ちなみに葛西家の菩提寺である「竜源寺」が、この居城の直ぐ下、北面の山裾の中にあり、現在もなお名刹として知られていることを付記しておく - 仙台領内古城・館。
| 名前 |
保呂羽館跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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葛西氏によって築かれたといわれる城です、平時の政庁である寺池城に対する戦時の詰の城であったかと思われます。標柱によると標高104m東西1km南北2kmのかなり大規模な山城で本丸、二の丸、土塁、空堀、腰郭などが残っているとの事です。直ぐ近くに登米氏の居城だった保呂羽城址があり、一つの城だったのか別々の城だったのか判然としません。