榊原康政の墓で静寂体験。
榊原康政公墓所の特徴
榊原康政の墓は、徳川四天王の一人を偲ぶ特別な場所です。
夏でも木陰が多く、静かにゆっくりお参りできる環境です。
極彩色の寺の装飾が見られ、歴史的価値が高いスポットです。
大きなお寺です夏でも木陰が多くてゆっくりお参りできました。
今日行きました静かででよかったです。
かつて善導寺は現在の東武館林駅付近にあり、康政公らのお墓もそちらにありました。東武線駅の開発に伴い移転が決まり、お墓も発掘調査が行われました。康勝公の骨は骨壷に入っていたそうですが、康政公の骨は火葬の後、直接埋められていたそうです。それでも骨は残っていたといいます。
日光社参の通り沿いにあったからかもしれないが、極彩色の寺の装飾がそれなりに見られる。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑三河一向一揆鎮圧戦で初陣を果たし、家康から武功を賞されて「康」の字を与えられた。元亀元年(1570年)の姉川の戦いでは朝倉軍の側面攻撃で多大な武功を立てている。(1572年)の三方ヶ原の戦いでは家康撤退時に康政は浜松城に入らず、昼間のうちに浜松城に入れなかった味方兵を呼び集めて夜を待ち、一斉に兵に声を上げさせながら敵陣に駆け入らせ、動揺し逃げ惑う武田軍を瓦解させてから浜松城に入ったという。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは決死の覚悟で徳川本陣に突撃してくる内藤昌豊を本多忠勝と共に戦って家康を守ったという。天正10年(1582年)の本能寺の変発生後の家康の伊賀越えにも同行している。関ヶ原のあと、家康はこれまでの功績を賞して水戸藩25万石を与えようとしたが、康政は関ヶ原で武功が無かったとして辞退した。
お寺の裏というか奥というかの所に有ります❗
徳川四天王の中では結構マイナーかもしれませんが、この人の活躍は素晴らしかったです。最初の頃から家康の側にいて、幾多の戦で活躍し、秀忠が関ヶ原に遅刻した時にも、激怒している家康に超謝って、秀忠を許してもらった人です。
名前 |
榊原康政公墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.2 |
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県指定文化財(史跡)榊原康政の墓附同画像所在地楠町3692 善導寺所有者・管理者善導寺指定年月日昭和28年(1953)8月25日榊原康政の墓附同画像石柵で囲われた墓域に、榊原康政・康政の長子大須賀忠政(おおすがただまさ)・榊原二代康勝(やすかつ)・康勝の生母花房氏(周光院)・殉死者南直道の5基の墓石が並ぶ墓所である。康政の墓は、向って左より2番目、高さ5.15mの宝篋印塔(ほうきょういんとう)である。墓石には、正面に「養林院殿上誉見向大禅定門」「慶長十一丙午季五月十四日」と刻まれ、向って右側面には、寛永15年(1638)の康政の33回忌に三代忠次が造立(ぞうりゅう)したことが記されている。大名墓として、また群馬県の近世初頭、特に館林藩の成立過程を研究する上で欠くことのできないものとして、墓所全域の99.2平方メートルが指定されている。昭和60年(1985)、館林駅前広場整備計画に伴い、本町二丁目3番36号より現在地へ移設復元した。なお移転に伴う調査で、康政・康勝・花房氏(周光院)の遺骨が確認されている。(館林市ホームページより)