歴史残る三本木通りへ。
立命館草創の地の特徴
河原町丸太町から東に進む三本木通りに位置しています。
立命館大学の前身である私立京都法政学校の歴史が感じられます。
西園寺公望の秘書官、中川小十郎の足跡をたどることができます。
河原町丸太町の交差点から東に二筋目を北に上がる通りを三本木通りと言います。上がってすぐに左右に別れますが、右が東三本木通り、左が西三本木通りです。道を右にとり、東三本木通りを上がるとすぐに頼山陽の山紫水明処の碑がありますが、そこから100メートほどの空き地の駐車場入り口に、立命館草創の地の碑があります。碑の横には「吉田屋跡」の説明板もあります。吉田屋(旧清輝楼)は幕末に勤王の志士たちが出入りした料亭で、桂小五郎も新撰組に襲撃された場所として有名です。さて立命館の碑も吉田屋の碑も現在は石碑が建つのみですが、かつては鴨川沿いの見晴らしの良いロケーションに建つ料亭だったことが想像されます。尚、東三本木通りを北に行くとすぐに西三本木通りと再び合流し荒神口を越え府立医大に突き当たり、三本木通りはここで終わります。三本木通りは丸太町から800メートルだけの通りなのです。突き当たりを西に行き河原町通りに出ると府立文化芸術会館ですが、その北側・広小路通りに立命館大学の広小路学舎がありました。尚、現在の三本木通りは「新三本木通り」とも言われてますが、江戸時代には「旧三本木通り」が東洞院あたりにあり「洛下遊宴の地」でしたが、1708年の京都大火をきっかけにこの地に移ったことから三本木の「通り名」も移りました。
石碑と看板があるだけです。ちょっと残念。
西園寺公望(1849~1940)の秘書官中川小十郎(1866~1944)明治33(1900)年5月,法律・政治の二科を置く,私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校した。料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ,翌年12月,広小路河原町の新校舎に移転した。この石標はその仮校舎跡を示すものである。なお清輝楼は,桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話で知られる吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ、その後平成8(1997)年まで大和屋旅館として存続した。
西園寺公望(1849~1940)の秘書官中川小十郎(1866~1944)明治33(1900)年5月,法律・政治の二科を置く,私立京都法政学校(立命館大学の前身)を開校した。料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ,翌年12月,広小路河原町の新校舎に移転した。この石標はその仮校舎跡を示すものである。なお清輝楼は,桂小五郎(木戸孝允)と幾松(のちの木戸夫人)の逸話で知られる吉田屋のあとを受け継いだ料亭といわれ、その後平成8(1997)年まで大和屋旅館として存続した。
名前 |
立命館草創の地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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