織田信長築城の旧二条城跡。
旧二条城跡の特徴
織田信長が築城した旧二条城跡は、歴史的な価値が高いです。
足利義昭の居城として有名な旧二条城は、観光名所としても人気です。
現在、平安女学院横に旧二条城跡の碑があり、訪れる客を迎えています。
京都市上京区武衛陣町にある史跡。現在の二条城が徳川家康によって建てられる以前に北東にあった別の城。室町幕府第15代将軍足利義昭の新たな御所として織田信長が建設した城です。現在は建物の角に記念碑と表示板が設置されています。
本能寺炎上 1582年 夏織田信長を選択将軍足利義昭が画策した対信長包囲網は、武田信玄のタヒ去によりその一角が崩れ去る。信長は、この好機を逃さず足利義昭を追放、続いて浅井・朝倉を滅ぼした。しかし、朝倉の滅亡により、新たな強敵上杉謙信の領国と接することになる。一五七七年、足利義昭の要請に応えた上杉謙信が北陸勢三万をひきいて南下。手取川の戦いにおいて柴田勝家・丹羽長秀ら織田軍五万を次々と打ち破り、越後へと凱旋する。当時最強と言われた織田鉄砲隊を持ってしても上杉軍の兵法には無力であり、新たな戦いが起これば信長は軍事的窮地に立たされたはずであった。だがその翌年、上洛準備のさなか謙信が急タヒ。これにより信長は、その窮地を脱した。残る敵は、中国の毛利、関東の北条、四国の長宗我部などの実力者である。これに対し信長は、「天下布武」の仕上げとして、中国平定軍に羽柴秀吉、関東平定軍に滝川一益、北陸平定軍に柴田勝家を配し天下統一に臨むのであった。# 天下布武 英雄 咆哮 ナレーション那古屋城跡 岐阜城。
現在は平安女学院となっているが、室町通りと下立売通りが交わる一角に、旧二条城跡の碑が置かれている。信長が15代将軍足利義昭の居城として建てたが、室町幕府の滅亡と同時に廃城となった。なお現在二条にある二条城は家康が建てたもので、本城とは関係無し。丸太町駅から徒歩5分ほどでアクセス可。
信長が足利義昭の為に築城した旧二条城跡です。現在遺構等は残っていません。旧二条城は信長と敵対した義昭が槇島城で挙兵すると二条城には伊勢貞興と三淵藤英らが配置されましたが、一戦も交えることなく降伏。その際廃城となった様です。
この一帯は1569年(永禄12)織田信長が将軍足利義昭のために造営した二条城(現二条城とは別)の跡である。堀をめぐらせ、高い石垣に櫓を設け、城内も庭園や建物に粋を凝らした堅固で華麗な城郭であった。1573年(天正1)信長により義昭が追放され、城は取り壊された。その後、付近の地下鉄工事で約100体の石仏が発見され、城の石垣に使われたものと判明。この築城を70日で仕上げたこととも思いあわせ、信長の強権ぶりがうかがえる。この石仏は伏見区、安楽寿院と、西京区、京都市洛西竹林公園に保管され、同時に発見された石垣の一部は、京都御苑下立売御門内と、現二条城内に復元されている。現地平安女学院前に石碑がある。 京都市This area is the site of Nijo Castle (separate from the current Nijo Castle) built by Nobunaga Oda for Shogun Ashikaga Yoshiaki in 1569 (Eiroku 12). Around the moat, a turret was set up on a high stone wall, and the inside of the castle was a solid and splendid castle with elaborate gardens and buildings. Yoshiaki was banished by Nobunaga in 1573 (Tensho 1), and the castle was demolished. After that, about 100 stone Buddhas were discovered in the subway construction nearby, and it turned out that they were used for the stone walls of the castle. Nobunaga's power can be seen in the idea that this castle was completed in 70 days. This stone Buddha is stored in Fushimi Ward, Anrakujuin, Nishikyo Ward, and Rakusai Takebayashi Park in Kyoto City. .. There is a stone monument in front of the local Heian Jogakuin. Kyoto City
京都の凄いと思う所。道端の何気ない場所が歴史的な場所であることが多い。何気ない路地や碑しかない所でも、あっと驚く場所が多々ある。
平安女学院のかどに石碑が建っています。京都は本当に歴史が積み重なっている街ですね。
麒麟がくるを見るまで、旧二条城の存在自体知りませんでした。碑があるだけですが、室町・戦国時代に思いを馳せて見るのも良き。
旧二条城(きゅうにじょうじょう)は室町幕府15代将軍足利義昭の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義昭は織田信長の武力を後ろ盾として永禄11年(1568年)に上洛、将軍就任後は六条本圀寺を居所としていたが、翌12年(1569年)、三好三人衆による襲撃を受けた(本圀寺の変)。この時は京都にいた信長家臣団および義昭の側近らの奮戦により防戦に成功するが、この報を受けた信長はさらに防備の整った城の必要性を認識し、義昭のために築城をすることを決めた。場所は義輝の武衛陣の城のあった地を中心に北東に拡張して約400メートル四方の敷地に2重の堀や3重の「天主」を備える城郭造の邸宅とした。
名前 |
旧二条城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒602-8029 京都府京都市上京区武衛陣町221 室町館 |
HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ka012.html |
評価 |
3.6 |
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足利義輝の二条邸から少し離れた場所に足利義昭を護衛するために織田信長が築城した旧二条城跡に行ってきました。わずか70日で築城したとは思えない程の技術で石垣はお寺の墓石や有るだけの石で石垣を使って築城したそうです。京都市営地下鉄を工事したときに寺社関係の石が出てきてこの辺りを発掘したそうです。わずか4年後に足利義昭が織田信長に追放されると旧二条城は取り壊され木材や石垣は後の安土城築城に使われました。信長は美濃攻めに小牧山城を築城しますが美濃を平定したら小牧山城を取り壊し、岐阜城の改築に使いました。信長らしい無駄を省いたやり方だと感心致します。