紅葉と共に静享する霊雲院。
霊雲院の特徴
霊雲院の写経は、落ち着いた雰囲気で心を整えられます。
お地蔵さんの庭があり、訪れる人も少なくのんびりと過ごせます。
東福寺の塔頭として、紅葉時期には訪れる価値があります。
22年11月21日に訪れました。JR・京阪東福寺駅から「東福寺」へ向かう道の途中に、『霊雲院』の案内の大きな看板が出ています。「拝観可能な日」か、「拝観不可の日」か書かれています。過去4回ほど通りかかりましたが、今回はじめて「拝観可能な日」でした。「東福寺」へ向かう道をそれ、看板の案内の通り、道を進んで行くと山門がありました。山門をくぐり、建物に入ると拝観受付がありました。「東福寺」塔頭寺院ですが、拝観している人は少なく、私が拝観している間私の他に2人、私1人という時間があり、私が帰ろうとしている時に1人きました。紅葉シーズンでも落ち着いて拝観できます。境内はそれほど広くはありませんが、庭園は重森三玲が修復したそうで、1度見たら忘れられないほどのインパクトがありました。「九山八海の庭」のど真ん中には台にのった石「遺愛石」がドーンと据えられています。また、「臥雲の庭」は、白と赤の砂が渦巻いていました。庭園好きや、落ち着いて観光したい方におすすめです。
お地蔵さんの庭のある寺院です。とても楽しい庭ですね🥰落ち着きのある庭でした😃
東福寺の塔頭の1つです。山門をくぐると目の前に。お地蔵さんが並んで迎えてくれます。
霊雲院には2016年11月に拝観しました。肥後細川家より賜った遺愛石を中心にする九山八海の庭と書院西側の臥雲の庭があります。
休館日の率高いです。
初めて東福寺を訪れた際は、門が閉ざされ入れませんでした、二度目は二年後の紅葉のシーズンに訪れ、東福寺への参道は多くの観光客でごった返す中、霊雲院を目指す人は少なく、ゆっくりと拝観が出来ました。霊雲院は室町時代の1390年に、東福寺・第八十世の住持であった岐陽方秀(きようほうしゅう)によって創建されました。彼は「不二道人(ふにどうにん)」とも呼ばれていたので、創建当初は「不仁庵(ふにんあん)」と呼ばれていました。その後、室町時代の1473年に、「尊くただよう不思議な雲」という意味の霊雲院(れいうんいん)に改められました。明治維新の際には西郷隆盛が密談を行った場所であったり、日露戦争ではロシア人捕虜収容所としても使われた時期もありました。目立たないながらも霊雲院は歴史的に重要な位置付けにある寺院です。こちらに拝観される方々がお目当てにしているのが枯山水庭園「九山八海の庭(くせんはっかいのにわ)」と、その中央に置かれている「遺愛石(いあいせき)」という霊雲院の寺宝ではないでしょうか。一般的に寺宝と言われるものは、由緒ある仏像や歴史的に重要な遺物だったりしますが、なぜ石なのか?それは寛永年間(1624-44)に第七世住持となった湘雪守元(しょうせつしゅげん)が肥後国(ひごのくに)出身で、帰依した熊本藩主細川忠利・光尚父子から御祝儀を申し出を受けましたが、それを固辞し代わりに庭に置ける簡素な石を寺宝にしましょう、となり「遺愛石」と銘づけた須弥台と石船が贈られることになった、という顛末です。古今、名石の誉れが高い「遺愛石」と枯山水の庭は、戦後、昭和を代表する作庭家であり多くの庭園を研究した重森三玲氏の手で復元され、遺愛石を中心に据えた九山八海の庭と、革新的な意匠の臥雲の庭の二つがあり、桃山様式という二階建て茶室観月亭からも庭が観賞できるようです。
(18/03/15)「文殊菩薩」御朱印をいただきました。以前はこのお寺が京都十三佛霊場第3番札所「文殊菩薩」でした。臨済宗東福寺派の寺院。東福寺の塔頭です。庭園:九山八海の庭、臥雲の庭(重森三玲(昭和を代表する造園家)が復元しました、枯山水庭園)幕末にはこの寺でも西郷隆盛と勤王の僧月照が維新へ向けて密議を交わしていたといわれています。日露戦争当時はロシア兵の捕虜収容所となっていました。拝観料500円。
東福寺の塔頭です。庭造りの名人とされる重森三玲の「臥雲の庭」がありました。庭をながめて瞑想にふけるひと時がいいですね。
休観日でした。
| 名前 |
霊雲院 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
075-561-4080 |
| HP | |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
|
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落ち着いた良いお寺です写経をさせて頂きましたが最初の訪問は友人達と紅葉の時季でした😊それから平日を選んで2回訪れました今年も来週京都を訪れる予定です😊