名和長年の戦没遺跡歴史を感じる場所。
名和長年公殉節所の特徴
後醍醐天皇の忠臣・名和長年の戦死の地です。
名和児童公園内に大きな石碑が二つあります。
鎌倉時代の遺跡に出会える貴重なスポットです。
大宮通中立売上る東側の名和児童公園内に「名和長年戦没遺跡」の大きな石碑があります。名和長年(なわながとし)生年不詳~1336年は伯耆国名和(現在の鳥取県大山町)を拠点に海運業を行う武将で、後醍醐天皇(1288年~1339年)が隠岐を脱出して同国船上山に逃れて以来、天皇に従い、建武政権では要職についた。建武3年(1336年)、九州から京都へ攻め入った足利尊氏(1305年~1358年)軍との内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死した。公園内の大きな石碑は名和長年が戦死した伝承地を示すものになります。名和児童公園内には名和長年が明治19年(1886年)正三位と昭和10年(1935年)従一位を追贈されてたこを示す石碑が建てられています。
名和長利は後醍醐天皇の京都還幸を助けました。明治時代からは天皇を助けたという事で英雄として教科書に紹介されましたよ❗
三木一草の中で最後に散った名和伯耆守長年(ホウ『キ』ノカミ:最早名前関係無し)の戦没地の様です。楠木・千種・名和には戦没地があるのに、残る結城が…無いね。陽梅東洞院から樋口東洞院の辺りらしいのですが…。
大きな石碑が二つもあります。その理由は名和長年が南朝方だったからでしょう。それにしても、北朝の子孫である明治天皇はなぜ南朝を正統としたのでしょうか?
トイレあります。
名和長年は伯耆国の豪族で、海運により富を積んだ。後醍醐天皇の隠岐島脱出・京都還幸を助け、建武の中興で伯耆・因幡を受領。後に武家政権の再興に傾いた足利尊氏との戦いで戦死。長年の侠気ともいえる行動は、同じような「悪党」と呼ばれた勢力にとって、胸のすくような出来事だったのかもしれない。時代の新興勢力がより古い権威と結ぶのは、両者にシンパシーがあるのだろうか。石碑は二本あり、「贈正三位」とある方は明治19年、「贈従一位」とある方は昭和14年とある。明治維新後、皇国史観の跋扈とともに贈位されていくのが分かり、すこしばかり暗澹とする。もちろんそれは長年本人には何の責任もない。後世、本人の預かり知らぬところで、偏狭なイデオロギーで人生を彩られるというのは、不幸だ。後醍醐も、明治から終戦までの時代も、『宋学』の時代だった。忘れられたように鳥居と玉垣が残るが、いまでは小さな児童公園になっている。安らかな景色と言えるのかもしれない。
たまたま娘と公園に行って発見。
歴史上の名人。
道に迷いたまたま歩いていたらこんなところに遺跡がありました。
名前 |
名和長年公殉節所 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.5 |
周辺のオススメ

鳥取県人には有名な後醍醐天皇の忠臣である名和長年さんが殉死された場所同じ忠臣である楠木正成が討死した神戸に湊川神社があるのとは違いひっそりとしていますね。