与謝蕪村が息づく町屋風。
与謝蕪村宅跡の特徴
四条烏丸のビジネス街に位置し、歴史を感じる町屋風の建物です。
与謝蕪村が生涯を送った場所として、多くの人に親しまれています。
蕪村の墓所は左京区の金福寺にあり、訪問と併せて楽しめます。
四条烏丸は京都のビジネスの中心とも言えるところ。そこから2本南の仏光寺通りを西に入るとすぐに、立派な商家の前に記念碑が立っている。
石碑と案内板がマンション等でなく、京都風町屋風な会社の前なので、多少、江戸時代の想像が出来るかなぁと思う。
与謝蕪村がここで暮らし、ここでなくなったのですね。散歩の途中で見つけました。蕪村ファンの私にとって聖地です。
遺憾ながら説明の看板だけでは蕪村蓊の時代を偲ぶのは難しい。あの名句「うづみ火や我かくれ家も雪の中」の隠れ家はこことされる。
墓所は一乗寺(左京区)の金福寺にあります。蕪村が復活させた芭蕉庵という茶室?もあり, 俳諧の聖地となっています。詩仙堂の近くです。
現在は「啓明」という会社の社屋のようです。説明看板を読むと、与謝蕪村が生きていたことろ、京都の町の様子が、ちょっとだけ、分かります。近くに、終焉の地もあります。看板に書いてある、日吉神社もすぐ近くにあります。
与謝蕪村は江戸中期の18世紀に活躍した俳人で、江戸俳諧中興の祖とよばれる巨匠です。摂津国東成郡毛馬村、いまの大阪市都島区毛馬町あたりで生まれた与謝蕪村は、20歳のころ江戸に下り、俳人・早野巴人のもとに弟子入りをして俳句を学びます。「宰鳥」という俳号を名乗っていたその頃は日本橋石町(いまの日本橋本町4丁目あたり)にあった「時の鐘」の近所の師匠・巴人 の家に居候の生活でした。与謝蕪村が27歳のとき師匠・早野巴人が死去。これ機に与謝蕪村は江戸を離れ、松尾芭蕉への憧れから「奥の細道」の足跡をたどる旅に出ます(この旅の手記『歳旦帳』をまとめた際に初めて『与謝蕪村』の俳号を用いています)。 関東・東北を10年近く旅した与謝蕪村は、36歳のころ京都・知恩院の近くで暮らし始めますが、わずか3年ほどで丹後宮津の見性寺へと移り、画の勉強を本格的に始めます。42歳で再び京都に戻ってきた与謝蕪村は姓を「谷口」から「与謝」と改め、その3年後には結婚して娘を一人もうけます。与謝蕪村は句を教えたり、絵を描いたりして生計を立てていたそうです。その後、京都の町を何度か転居したあと“終の棲家”となるこの土地に引っ越してきたのは59歳の時。奥さんのともさんが見つけてきたこの閑静な住宅を気に入った与謝蕪村は、1783(天明3)年12月25日未明、ここで68歳の生涯を閉じました。
石碑のみです。
名前 |
与謝蕪村宅跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/si025.html |
評価 |
3.8 |
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江戸時代中期の俳句の俳人、また、画家としても活躍した与謝蕪村(1716年生まれ1783年没)の当時の住まい跡です。こんなところにあるんですね。