歴史ある美里町の聖天社でお参り。
二柱神社の特徴
猪俣氏が崇敬した歴史ある聖天社で、文化の息吹を感じる神社です。
境内には多様な神社が点在し、参拝が楽しめるユニークな場所です。
旧村社としての格式を持つ美里町の守り神、訪れる価値があります。
七五三のお参り。
二柱神社御祭神 伊邪那岐命 伊邪那美命境内社 伊勢大神社 豊受大神社 愛宕神社 八幡神社 稲荷神社 八坂神社 山神社 諏訪神社 雷電神社 琴平神社 天神社風土記稿(江戸時代)の記載「聖天社二宇」「村の鎮守なり。正円寺の持。共に古き鰐口を掛く。この鰐口当社に傳ふる来由詳かならず。」「大沢郷松久庄鉢形領に属す。江戸よりの行程二十二里、南は円良田村、北は中里・甘糟の二村、西は大仏・湯本の二村にて、東は榛沢郡用土村なり。村内に江戸より信濃国への脇往還かかれり。当村は当国七党の内、猪俣党の住せし地にして、天正年中まで子孫猪俣能登守所領せし事、其家の譜及(「秩父通志」)等に見えたり。小名、小栗、宿、宮前、栃木保、湯脇、野中、東川原」(「新編武蔵風土記稿」より抜粋)由緒大字猪俣の二柱神社は、創建の年代は不詳ですが、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられ、古くは聖天宮と称しました。神仏分離後に二柱神社と社号を改めています。当社に伝えられている二つの鰐口は、町の文化財に指定され、その一つ「永禄の鰐口」は、永禄六年(1563)十月に信州佐久郡野沢郷薬師寺に寄進され、さらに永禄十二年(1569)七月に同郷八幡宮に再寄進されたものを、天正十年(1582)小田原城主北条氏直から信州内山城の防備を命じられた猪俣邦憲が持ち帰ったものといわれています。もう一つ「天正の鰐口」は、天正十六年(1588)に鋳造されたもので、同年四月猪俣邦憲が戦勝祈願のため奉納したものです。当社の社務は、江戸時代以降正円寺が兼帯したことからこの鰐口を「正円寺の鰐口」ともいいます。他に、元禄十五年(1702)の鰐口及び寛政三年(1791)の棟札が現存します。神紋には「違い大根紋」が掲げられ、御神前に野菜(二又大根)が供えられる事があります。これは江戸時代、聖天様は二又大根が大好物であることに由来し、聖天信仰が盛んに行なわれていたことが判ります。当二柱神社も聖天様として沢山の参拝者があったと言われています。(「美里町史」及び「境内案内板」より)猪俣党猪俣党とは、武蔵国那珂郡(現在の埼玉県児玉郡美里町)の猪俣館を中心に勢力のあった武士団です。武蔵七党の一つで、小野篁の末裔を称す横山党の一族です。小野孝泰(小野篁の七代後の子孫)が朝廷の牧場「小野牧」の別当兼武蔵守として、武蔵国へ下向・赴任してきたとき、小野孝泰の子の一人、武蔵権守「義孝」が「横山(東京都八王子市)」に館を構え「横山」と称し、「横山党」を創設しました。小野孝泰の子の一人、武蔵介「時資」が「猪俣(埼玉県児玉郡美里町)」に館を構え「猪俣」と称し、その子「時範」は「猪俣党」を創設しました。武蔵七党の二つ「横山党」と「猪俣党」は同じ時期に誕生したことになります。横山・猪俣は同族で、「小野妹子」、「小野篁」の子孫です。猪俣氏の他にも人見氏、男衾氏、甘糟氏、岡部氏、蓮沼氏、横瀬氏、小前田氏、木部氏などの一族が存在し、近隣に勢力を広げました。美里町猪俣地区に鎮座する二柱神社は、正円寺の西側山腹寄りに所在し、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっています。(ブログ「古社への誘い」より)
美里町猪俣にある歴史ある神社です。一の鳥居から長い参道があり、90度曲がって二の鳥居があります。一の鳥居の横には正円寺というお寺がありますが、こちらのさらに奥に二柱神社があります。ご祭神は、伊邪那岐命(イザナギノミコト)・伊邪那美命(イザナミノミコト)です。なんとなんと日本神話のはじまりと言われている神様!!!日本神話上の初めての夫婦です。凄いですね。この神社のある猪俣の地名となったのは猪俣党。猪俣党は、その昔戦国の世(平安から鎌倉時代にかけて)に、この美里町付近を中心に勢力のあった武士団で、武蔵七党の一つであります。その中心にあった猪俣氏が代々この神社を崇敬してきたと言われています。境内が山肌にかかっていて、二の鳥居をくぐると、階段で上がっていくように拝殿へ進みます。拝殿には大きく「二柱神社」と書かれている扁額があります。拝殿は高い位置にありますので、境内を見渡すことも出来ます。境内社もあります。伊勢大神社、豊受大神社、愛宕神社、八幡神社、稲荷神社、八坂神社、山神社、諏訪神社、雷電神社、琴平神社、天神社、・・・・・・・などなど。この猪俣地区では毎年8月15日に、猪俣の百八燈という行事があります。400年以上続く伝統的な行事で、日が沈むころ、堂前山の尾根に築かれた百八基の塚に火をともすという、それはそれは幻想的な行事です。猪俣党の頭領、猪俣小平六範綱及びその一族の霊を慰めるためと言われています。この行事が終わった後に花火大会も開催されています。
旧村社。御祭神:伊邪那岐命(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみ)。創建:年代不詳(室町時代以前)。当社の鎮座する美里町猪俣は、武蔵七党猪俣党の本拠地であり、創建年代は不詳ですが、当社はもともとは聖天社と称し、猪俣氏代々の崇敬した社と伝えられています。猪俣地内には、猪俣小平六の館跡(平安時代)や、その子孫が築いた山城の猪俣城跡(室町時代)があり、猪俣党にかかわる旧跡が多くあります。猪俣党は、横山党の祖である武蔵介小野義隆の弟横山時資をその祖とし、那賀郡・榛沢郡に勢力を広げたとされ、とりわけ、猪俣小平六範綱は源頼朝に従って、一ノ谷の合戦(1184年)で平盛俊を討ったことで名高いとあります。一の鳥居の先に正円寺(当社の別当)があり、更にその先に当社・二柱神社が鎮座します。寺社の前を流れる正円寺川は、猪俣小平六館の水堀の役割を成していたそうです。正円寺境内入り口に猪俣邦憲が聖天社に奉納したという2つの鰐口についての説明板が設置されています。丘陵地帯に立つ社殿は背後の小山の鎮守の森と一体化していて、南西の方角にはゴルフ場の穏やかで緑の起伏が目に留まります。神紋は二本の二股大根を交差させた形のもので、氏子の間では、秋になると収穫した二股大根を当社の神前に供えるのが習いとなっているそうです。
旧村社格。猪俣党由来か。
名前 |
二柱神社 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0495-76-3040 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.2 |
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この神社は猪俣氏が崇敬した聖天社だと云われています。明治時代になり二柱神社としました。猪俣氏は小野篁の子孫として東京の八王子市の横山氏から分かれた猪俣氏として今の美里町、深谷市、寄居に勢力を広げた武士団です。武蔵七党の横山党と猪俣党として存在しました。神社の建物が新しくですが、小さくまとまっています。