静寂と歴史の茂田井宿。
諏訪神社の特徴
整備された静かな参道は、心を落ち着けてくれます。
境内には遊具があり、家族連れにも嬉しいスポットです。
茂田井宿の歴史を感じる、旧中山道沿いの神社です。
地図を頼りに北側の水路沿いに入ろうとしました。確かに社殿は水路を渡れば直ぐですが道は行き止まり、しかも個人宅の通路になっています。車を停めるなら東隣の小学校跡地に停めるのが宜しいかと。鳥居から改めて入り直します。近頃目にする事が多くなった『農村公園』普通に児童公園で良いのでは?参道は草が在るお陰で泥濘も無く歩けました。『美多良志』(御手洗?)と書かれているのは手水所。礼拝の後、拝殿の格子から中を覗き込んでみますと………驚きました。緻密な彫刻の施された中屋根。更に奥に見える本殿の彫刻。入口まで戻って説明書きをよく読むと、此の地の名工『田中圓蔵』作とあります。『津金寺仁王門』を建てたのもこの方。惜しむらくは板囲いで本殿が良く見えません。境内には『日の出地蔵』も在りました。あれ?地図によると違う場所の筈だけど?
立科町茂田井の諏訪神社。この神社に関する最も古い記録は天正16年(1588年)当時の小諸藩主松平康国(芦田城主依田信蕃の子)が、蓼科神社の神官今井曽五郎にあてた書状がある。この神社を「毛田井之宮(もたいのみや)」として「神領を遣わしておくからには一騎の軍役を勤め、宮の修理、祭、祈念を怠ってはならない」とある。現在の社殿は、江戸時代末期の文化15年(1818年)に茂田井の宮大工・田中圓蔵は当時宮大工として天下に名声のあった諏訪の初代立川和四郎の弟子となった人で現在立科町にある圓蔵の作と伝えられるものに、津金寺の仁王門と妙見堂(二代和四郎と共作)・古町光徳寺山門等がある。(立科町教育委員会/立科町文化財保護委員会の説明板より)境内には日の出地蔵があるが、もとは倉見城主米持庄司の御代一休禅師の開眼にかかわる霊仏である。天正年間(1573年~1792年)倉見城が落城しこの霊仏も大破した。文久年間(1861年~1864年)土に埋もれた地蔵尊が発見され、茂田井の徳間寺に祀られた。その後徳間峰より現在地に移された。
静かな参道がきれいに整備されていて心が落ち着くナイスポイントです!こんな山里にも先日、野生の猿が出現しました。目撃したのは1頭でしたがその落ち着き払った行動と体格の良さから群れのボスにあたると感じました。
茂田井集落から無量寺に向かう小径を歩くと、左手(東側)に神社の境内が見えてきます。これが諏訪神社です。境内には桜やイチョウの古木があって、のどやかな雰囲気です。信州の農村と街の集落の多くには諏訪神社が祀られています。諏訪大社が「信濃の国一之宮」と位置づけられているからでしょうか。ことに塩尻以東の中山道の集落のほとんどに諏訪神社があるようです。やはり、中山道和田峠の麓、諏訪湖の畔に諏訪大社があって、下ノ諏訪宿の要となっているので、街道伝いに祭神として建御名方命を勧請分祀するのが容易だったからでしょうか。諏訪神社は茂田井の街の中央部やや西よりにあって、境内は芝生が広がる緑地公園となっていて、まさに街中の憩いの場という感じです。参道入り口にある説明板によると、諏訪神社の創建年代は不明で、神社のことが記された一番古い記録は、天正年間(1588年)に当時の小諸藩主松平康国(芦田城主依田信蕃の子)が、蓼科神社の神官今井曽五郎にあてた書状だそうです。それによると、藩主家は諏訪社に神領を与えて厚く祀っていたようです。現在の社殿は、江戸時代末期近くの文化1年間(1818年)に茂田井の宮大工、田中圓蔵が建てたもの。蓋屋なかに収められた本殿は一間社流造で、周囲が全部見事な彫刻で飾られています。この社殿は現在は瓦葺きですが、建立当時は茅葺だったかもしれません。圓蔵は初代立川和四郎の弟子で、芦田の津金寺仁王門などの傑作を手がけたそうです。
草も枯葉も綺麗に掃除されていて気持ち良く参拝。紅葉が綺麗でした。拝殿の柱の装飾が竜!社殿の彫刻も圧巻。茂田井の宮大工、田中圓蔵作とのこと。
茂田井宿は旧中山道の望月宿と芦田宿の間にある間(あい)の宿で、今でも昔の名残がある。その中山道沿いに諏訪神社があり、鳥居のところに芭蕉句碑がある。山路来て何やらゆかしすみれ草 はせを明治35年(1902)8月に建立された碑。
名前 |
諏訪神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP |
http://www.nagano-jinjacho.jp/shibu/03tousin/02kitasaku/2049.htm |
評価 |
3.5 |
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境内にはいくつかの遊具があります。