金沢八景の歴史を感じる御伊勢山。
御伊勢山の特徴
金沢八景駅西側の御伊勢山は歴史が深い場所です。
山頂には戦時中の兵舎跡と施設遺構があります。
自然と歴史が共存する体験ができるスポットです。
権現山との境目が分からない。はよ市民の森としての解放を待ち望む。
倒木多し 蜘蛛の巣多数。
歴史・自然が埋もれている。今昔の地図を見て探していました。絶対に壊さないで下さい。伊勢山(標高6・77)と呼ばれるのは山頂に伊勢神宮が祭られていたからだそうです。記録には入母屋作りかやぶきの社殿でその前に木造の鳥居と石灯籠があったということです。白い鳥居は御伊勢山無関係です。
六浦第六公園南側より山道に入る事が可能です。途中の法面には小さな鳥居⛩があり、なんか歴史がありそうな予感。少し急な登りをして無事山頂に到着。ん〜どこが山頂かわかりにくいが、なんかの建物の基礎が残っていました。木が多く展望は無し。ここからは尾根伝いに権現山に行く事ができますよ。
山頂には戦時中の兵舎跡や付随の施設遺構があり、さらに周辺には機銃座とされるコンクリート柱や倉庫豪が残ってます。また、地下には軍需工場跡が結構な広さで残っているが豪口の大部分は市大側にあり閉鎖されている。強者は山中の支豪から突入しているが、彼らは馴れた方々なので決して真似はしない様に。それなりの装備が必要。
歴史・自然が埋もれている。今昔の地図を見て探していました。絶対に壊さないで下さい。忘れて去っていた神社跡があります。
御伊勢山は近世まで太神宮と呼ばれた祠が存在した。上行寺東遺跡入口階段の左側の道を進むと権現山の林道へと繋がっており、権現山の尾根の分岐点からから西に向かうと御伊勢山に登れる。この御伊勢山と尾根伝いの権現山は室町時代の文化人で禅僧の万里集九が書いた❝梅花無尽蔵❞に登場する山で、一帯は横浜市とは思えない自然豊かな場所で鎌倉文化を感じられる遊歩道が有り、そして実は❝史跡❞でもあり❝城跡❞でもある。戦国時代の旧北条家臣の三浦浄心は旧:久良岐郡金沢(横浜市金沢区)の事を瀟湘八景になぞらえて、この地の景勝を文にしている。これが後に金沢八景として葛飾北斎が遊覧に訪れ描いた風景で・・・【小泉夜雨】 手子神社(小泉弁財天)周辺【称名晩鐘】 海上の船から金澤山彌勒院稱名寺を見た様子【洲崎晴嵐】 海埋立前の 洲崎神社辺りから対岸を見た様子。【瀬戸秋月】 瀬戸神社の近くから、琵琶島弁財天の二重橋越しに夜月を見た様子。【乙艫帰帆】 海の公園埋立前の寺前地区の旧海岸線をから帆船を見た様子【野島夕照】 野島夕照橋付近【平潟落雁】 埋立前の平潟湾一帯の風景。【内川暮雪】 平潟湾を内川入江か瀬ヶ崎から九覧亭辺りを見た様子。・・・以上が現在の金沢八景の地名由来に成った。この権現山の一帯は鎌倉時代に源頼朝公と文覚上人が開いた六浦山浄願寺と言う大寺院が存在したのだが、そこには❝徒然草❞の著者として有名な兼好法師こと吉田兼好も一時期住んでいた事が知られる。神奈川県立金沢文庫の学芸員さんの論文によるとそんな景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・題名:入武蔵同日有山曰❝権現堂❞ ❝即相武両道之界❞古云群盗所聚也今則不然也蓋昔有堂歟駅樹風声入武州山名権現憩無楼旅衣未脱昏鴉尽聊借民爐嘗濁蒭・・・これは万里集九禅師が金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのだが、もう今は無くて云々と同地を訪問した際に一般人と話している様子を詩にしている訳だが、そこに「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り、六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る。この山の麓には現代も存続する六浦山上行寺と言う日蓮宗寺院が在り、そこは日蓮宗では有名な日蓮上人と富木胤継公(後の日蓮宗大本山:中山法華経寺の初代住職の日常上人)の船中問答の舞台でもあり、仁王像を真言律宗別格本山:金澤山彌勒院稱名寺から譲り受け身延山久遠寺に奉納した日荷上人(荒井平次郎光吉公)が再興した寺院なのだが・・・この荒井光吉公は鎌倉幕府執権北条一族の旧臣で、同地は金沢北条氏の所領だった事から恐らくは金沢北条家の直臣だっただろう事と稱名寺と上行寺の御縁が推測出来る。・・・そして、荒井光吉公は荒尾城主だったと伝わるのだが、恐らくこの権現山を含めた尾根伝いの山々、権現山~御伊勢山~金沢文庫駅前横浜市立大学裏~上行寺東遺跡(浄願寺跡)の全体が地形的にも荒尾城址だったと小生は現地の地形が中世の山城の人工地形そのものである事から推測している。
名前 |
御伊勢山 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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皆さまには、余りご存知でないものと思われますが、この金沢八景駅の西側山の上は御伊勢山と呼ばれております。現在の横浜市立大学校舎の敷地には、戦時中に横須賀海軍の第一技術支廠が有ったのです。その後方の山の上には、当日の東京湾に向かって、高射砲の砲台が有りました。その痕跡を探しに山の上に入ったものの思いのほかの急斜面と枯れ草が反乱して滑りやすくなって居ましたが、何とか途中の横浜市立大学校舎までの間の尾根道を探索することが出来ました。この先は、尾根道が無くなっていて、以前はこの先の貯水槽や地下壕がある現在の総合車両基地の敷地内は立ち入ることが出来ません。高射砲の跡らしき、コンクリートの人工物が散見することが出来ました。このまま、時代から取り残され、忘れ去られることだけは何としても避けなければ成りません。