赤門で出会う歴史の深さ。
浄福寺の特徴
住宅密集地の中に広大な境内があるお寺です。
浄福寺は赤門寺として親しまれ、多くの歴史的背景があります。
幼稚園の声が響く静寂な境内で、のどかな雰囲気が楽しめます。
23年3月16日に訪れました。東門が赤く塗られているため赤門、寺名も赤門寺と呼ばれ親しまれています。天明の大火の時に鞍馬から舞い降りてきた天狗(護法魔王尊)が赤門の上で大きなうちわをあおぎ、赤門前で火を吹き消したと伝えられています。この天狗が赤門を入って右側にある「護法権現堂」に祀られています。この伝説が面白いなぁと思いました。本堂は2つの建物、礼堂と法堂からなっています。これは江戸中期、8代将軍吉宗によって奥行が制限されたため、2つの建物を建てました。境内に幼稚園がありました。
住宅密集地の中に、 こんなに境内の広いお寺があるとはびっくり。 本堂は堂々たるもの。 かなりいわれのあるお寺だ。
恵照山浄福寺という浄土宗のお寺、御本尊は阿弥陀如来、こちらは境内の一角にある護法権現堂が一部マニアの間で有名、京を襲った天明の大火の際、鞍馬山より天狗(護法魔王尊)が降り立ち団扇で火を吹き消したとか!?(信じるか信じないかはあなた次第)お堂には年代物の天狗絵馬が奉納されており、中には任天堂の花札を奉納したものもある🎴これは上述の火伏せから、博打と火傷しないというギャンブラーな信仰からだそうです。★幼稚園を併設しており送り迎えの親御さんの姿が目立つ、平日男がカメラを持って違づくと不審者扱いされかねないので注意!!お参りするなら土日祝日にしましょう。又、毎土25日に三国伝来おお釈迦様をご開帳(午後2〜4時)していますが昨今はコロナ禍で中止されているそうです。
【島津歳久に関連り】一条戻橋で晒し首後ここで一時埋葬、そして二百年後に九州の平松神社(心岳寺)に胴首が共になる歳久の首は、肥前名護屋城の秀吉のもとに届けられ首実験をされ、さらに、京都の聚楽第(じゅらくだい)に送られて、一条戻橋にさらされたといわれます。ここは、昔から、強盗などをした罪人の首をさらす場所だったそうです。歳久がさらし首になっていた時期に、歳久の従兄弟(いとこ)に当たる島津忠長がちょうど京都にいて、大徳寺の玉仲(ぎょくちゅう)和尚と図って、市来家家臣に盗みとらせ、京都浄福寺に埋葬し、浄石塔が建てられました。そして、歳久の末裔に当たる日置島津家14代島津久明(照国神社の4代宮司)が、明治5年(1872年)に京都にのぼり、その首を鹿児島に持ち帰り、一方帖佐の総禅寺に埋葬してあった胴体も掘り起こし、それと一体にして、平松神社(心岳寺)に改葬したそうです。二百数十年経って、ようやく首と胴体が一緒に埋葬されるに至ったわけです。さらに、大正の終わりか昭和の初め頃に、日置島津家の菩提寺だった大乗寺跡に改葬されたそうです。
御本尊:阿弥陀如来宗派:浄土宗創建は延暦年間(782-806)で、京都御所の鬼門除けの寺院として御所の東北に建立されました。興福寺僧の賢憬大僧都を開祖として、御本尊は三国伝来の釈迦如来像を安置し、当時は二十五大寺の一つに数えられていました。ですが、当寺はたびたび火災にあい、建治2年(1276)、第91代・後宇多天皇の命によって一条村雲に再建し「村雲寺」と呼ばれました。大永5年(1525)に第104代・後柏原天皇より念仏三昧堂の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、後に知恩院の末寺となりました。そして元和元年(1615)、現在地に移転しました。拝:2020/10/31
通りから入って少し奥まった場所にあるが大きなお寺である。幼稚園が併設されている。
ドングリ沢山拾えます。
浄福寺通りもあり、地元でも大きめのお寺はんです。幼稚園もあります。倒れかけている木があり、そこから新しい木々が茂ってきているのを見ると、生命の尊さを感じます。✨✨探してください。
『赤門』『黒門』で有名です。実は私も近くにいた人に教えて貰いました。幼稚園に隣接しているので、可愛い声のお歌も聞こえてきて 癒されます。中に入ると 立派な御堂や鐘も有って 良いお寺ですね!歴史も有るお寺です。
名前 |
浄福寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
075-441-0058 |
住所 |
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評価 |
4.1 |
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実父のお通夜〜ご葬儀をこちらでお願いしました。とても素敵な釈迦堂で親族一同故人とのお別れをきちんと済ませることができ、大変感謝いたしております。