戦国の歴史が息づく、平野郷環濠跡。
大阪市平野郷環濠跡の特徴
桜が満開のこの時期、静かな環濠跡は美しい景色を提供します。
戦国時代に自衛と洪水調節のために掘られた歴史的な環濠の名残があります。
平安時代に利用されたという土塁が残る、特に珍しい環濠跡が見どころです。
この時期、桜が見事ですよ〜。\(^o^)/
桜も満開で綺麗でした❗
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつながり、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎ともなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。環濠は、明治の初期には郷の東側から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
環濠の名残が、ここに見られます。うれしいね。
非常に珍しい土塁が残る環濠跡。
平野郷を散策して、一番印象的だったのはこの環濠跡だ。始まりはいつの時か、多分戦国の頃だろう。しかしその原点は、平安時代に遡るという。これらの濠が平野郷を取り囲み、自治都市を形成していたのだ。しかし時は経ち、時代は変わり、濠は埋め立てられ、その姿を消していく。濠を失った平野郷に、昔の面影はない。それでも、数多くの寺社や地蔵堂、古民家や穏やかな落ち着いた街並みは今も残る。今、平野郷の人々は、町興しに必死で頑張っている。わずかに残った環濠跡は、平野郷の人々にとって守るべき環境の最たるものだろう。
平安時代(西暦800年頃)に平野を治めていた坂上広野麿の時代にも平野郷環濠が利用されていたかも。余談ですが、環濠跡の東側に供養塔が建っており、それは昔に平野川の氾濫や護岸工事の際などに命を失ったりした方々のための供養塔です。建てたのは、昔に屋号『なべや』という質屋を開いていた金田さんとおっしゃる方なのですが、今は血縁が切れて墓の守をする方がいらっしゃらないとか。
目をみはるものはないが、歴史がこころの中に拡がる。
名前 |
大阪市平野郷環濠跡 |
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ジャンル |
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住所 |
〒547-0042 大阪府大阪市平野区平野市町1丁目1−38 |
HP | |
評価 |
4.3 |
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静かです。散歩にいいかな😄