大阪城近く 歴史の煉瓦物語。
旧大阪砲兵工廠化学分析場の特徴
大正8年に建てられた煉瓦造りの重厚な建物です。
大阪城近くに残る日本軍の兵器工場跡地です。
歴史文化の重要物件としての価値が高いスポットです。
今にも朽ち果てようとしているが歴とした軍需工場で煉瓦建てで歴史文化の重要物件である。これも歴史観光から切り離されて放置している。大阪は万博なんかに金を突っ込むよりこういった史跡を重要視してほしい。
煉瓦造りの歴史を物語る建物ですがフェンスで囲われているけど特になにも施されないまま朽ちていかないように願います。
大阪城の敷地に放置されている貴重な場所。 何とか保存して内部など公開出来る様にするべき、クラウドファンディングや故郷納税など活用すれば出来る筈。
大阪城近くにある、日本の軍事産業の面影を残す廃墟です。明治初期は政府が富国強兵を目指して多くの改革を行っていました。その一環として、軍備の近代化を担う軍工廠(軍隊直属の軍需工場)が東京と大阪に建てられました。大阪砲兵工廠は、陸軍の大砲や弾丸を中心に製造していました。こちらの化学分析場は後に増築された建物で、その名の通り新兵器の開発や化学実験が行われていたそうです。当時はアジア最大規模の軍工廠でしたが、現在面影を残す場所はかなり少なくなっています。その中で1919年に造られたまま残っている建物がこちらになります。レンガ造りの重厚な建物で、レトロな雰囲気を感じることができます。説明書きがなく、少し不気味な感じはしますがそれはそれで廃墟の味がありました。
大正8年(1919年)に建てられた、煉瓦造りの旧陸軍兵器工場跡。大口径砲を製作していた工場。平成10年(1998年)まで自衛隊大阪地方連絡部として使われていたとのこと。煉瓦造りの建物で如何にも廃墟然とした佇まいながら、よくよく見るとレトロな雰囲気が横溢しててなかなか良いと思った。大阪港にある倉庫のように、この雰囲気を巧く利用した施設として蘇らせる手立ては無いのかなぁ。
ちょっと朽ちた感じです。整備してちゃんとすればいいのに。
通りがかりに目にして知りました。趣のある建物ですが、進入禁止。何か再利用できたら良いと思いました。大阪城天守閣横の建物のように。
京橋を渡るとレンガ造りのこの立派な建物が現れます。歴史的な建築物であるのに廃墟のようになっていたが、それはそれで味があった。開発して観光名所にしたらいいのにと思う。
大阪城の北西側に明治初期に建てられた日本軍の兵器工場「大阪砲兵工廠」がありました。その広さは40万坪にも及び、最盛期には6万人が働く「アジア最大の兵器工場」と言われましたが、第2次世界大戦の終戦前日、昭和20年(1945年)8月14日に「アメリカ陸軍航空隊(後のアメリカ空軍)」の「B-29」の猛爆撃によって徹底的に破壊されてしまいました。そのうち、今も残っている貴重な建物が「旧大阪砲兵工廠化学分析場跡」で、大正8年(1919)に完成。設計者は当時は陸軍の技師として第四師団や砲兵工廠関係施設の設計に、戦後は旧鳥取県立図書館や宮崎県庁舎、旧国立生糸検査所(現デザイン・クリエイティブセンター神戸KIITO新館)など多くの公共建築物にたずさわった事でも知られる建築家、置塩章(おしお あきら)です。赤レンガを用いたネオ・ルネサンス風の2階建てで、ここで兵器の研究開発や化学実験が行われたとみられています。第二次世界大戦での空襲による破壊をまぬがれ、戦後は国の庁舎、大阪大学工学部の校舎、1964年から1994年までの30年間は自衛隊大阪地方連絡部(現・地方協力本部)庁舎としても使われていましたが、今は廃墟になってしまい老朽化が進んでいます(管轄は近畿財務局ですが、耐震工事などが大阪市の財政難もあって難しく「具体的な活用方法は未定」との事)なお戦後、不発弾が多く危険だという理由で約20年近く、この一帯は更地のままとなっており。鉄くずを回収し生計を立てる「アパッチ族」と呼ばれる人々が集まり、バラック集落を作るまでになっていました。その当時の様子は開高健が1959年(昭和34年)に発表した小説「日本三文オペラ」などで今でも知ることができます。
| 名前 |
旧大阪砲兵工廠化学分析場 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
https://www.osakacastlepark.jp/articles/detail.html?id=224&lang=ja |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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ここは 昭和20年8月14日つまり敗戦 前日の午後アメリカ軍の大空襲で750 トンもの爆弾が落とされ6万数千人がが働いてた内1万数千人が死んだと言われてます。当時の 警察発表によると3百数十名となっている。戦後 昭和30年代まで工場跡地はほったらかしで、スクラップの集積となってその鉄くずを目当てに在日韓国人等が盗に来ていたそうです。その話が 小松左京の小説く日本アパッチ族」の舞台となった。