歴史が息づく大原合戰の舞台。
菊池武光公 太刀洗伝承之地の特徴
熊本の武将に対抗した英雄がまつられている史跡です。
戦国時代の歴史を感じる特別な場所がここにあります。
筑前町山隈で歴史探訪を楽しむことができます。
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熊本の武将が福岡に攻めて来たのに、こちらの英雄のようにまつられているのですね❗
名前 |
菊池武光公 太刀洗伝承之地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.3 |
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【大原合戰とは】(南朝暦) 正平十四年(一三五九年)七月から八月にかけて、およそ六万人の北軍(少弐・大友連合軍)と、およそ四万人の南軍(懐良親王・菊池武光軍)が宝満川流域の味坂・大原・西島・山隈を含む筑後平野を舞台にして、一大決戦を展開し、両軍の戦死傷者合わせて約二万五千人といわれている。戦いの結果は南軍の勝利となった。以後、菊池武光は懐良親王を奉じて大宰府に征西府をおき、十数年間九州政治の実権を握るに至った。平地戦で短時日にこんなに多数の戦死傷者を出した激戦は稀であるといわれ、その霊魂を弔ったと伝えられる跡やその他の遺跡は残っています。その一部は「善風塚 」「高卒都婆 」「前伏(大原古戦場の石碑)」「将軍藤 」、そしてこの地である「菊池渡 (わたし)」です。石碑の言葉↓この碑は、大正十二(一九二三)年五月に当時の陸軍少将森部静夫氏が、朝倉郡教育会の依頼を受けて太刀洗の由緒について記したものです。しかし、昭和二十(一九四五)年三月の大刀洗飛行場の空襲で紛失していました。この碑文を要約しますと、「南北朝時代正平十四(延文四・一三五九)年大保原(おおぼはる)の戦いで宮方の菊池武光が、幕府方の少弐頼尚(しょうによりひさ)を破り勝利した後、戦いでもちいた太刀の血糊を洗い清めた地である。」という武功が記され、そのあとに、この地が太刀 の伝承地としての論証を「貝原益軒(かいはらえきけん)の『筑前国続風土記』 の記述や、土井正就(まさのり)・大倉種周が測量した江戸末期の測 量図に記されている地名などから定められる」と続けられています。また、「この地に大正七(一九一八)年建設された飛行場に「太刀洗」の名がつけられたのは、この地での菊池武 光の太刀洗伝承によるものである」と記されています。平成十二年三月三輪町菊池武光公が刀を洗ったとされ、太刀洗の由来になる歴史的価値のある場所です。