太平洋戦争の歴史を刻む、山の上の慰霊塔。
荒尾市慰霊塔の特徴
小さな山の上に位置する慰霊塔で静かな空間が魅力です。
太平洋戦争末期の歴史を感じられる史跡として注目されています。
陸軍の火薬工場跡が近くにあり、歴史を学ぶ良い機会です。
太平洋戦争末期、荒尾市には陸軍の火薬工場があり、大牟田市には火薬の原料になる石炭を生産する炭鉱と、中規模な港があり2~3回ほど空襲がありました。その際、亡くなられた方々の慰霊塔とは思いますが、炭鉱での殉職者の方々や、その他モロモロの方々を含んでいるか?は分かりかねます。
| 名前 |
荒尾市慰霊塔 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
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小さな山の上にある慰霊塔です。山頂には神社と展望台と灯台があり、この慰霊塔が有明海を見渡す様に作られています。大東亜戦争で多くの日本兵が亡くなりました。九州は長崎県佐世保市にも多くの軍事遺構がいまも残っています。私たちは戦争を知らない世代ですが、これからの日本の平和を見守って頂きたいです。下記が慰霊塔の建てられた内容になります。荒尾市は、三井系の万田炭鉱・四ッ山炭鉱と同系列の化学工場・軍需工場があり、新興工業都市として発展途上にあったため隣接の大牟田市と同時に爆撃を受けた。昭和20年6月18日の空襲午後11時頃、天草方面から北上したB29の編隊60機が、荒尾市南西の有明海沿岸から侵攻、多数ぬ焼夷弾とナパーム弾が投下され市街地は瞬時にして紅蓮の炎につつまれ、死者32名、重軽傷者175名を出した昭和20年7月27日の空襲東京第二陸軍造幣廠が全滅、また四山神社・西原大神宮の社殿が喪失し、死者14名、重軽傷者120名の罹災者を出した。この二度の空襲で、市街地の大半は焦土と化し壊滅的な被害を受け、荒尾市では約9万坪に亘る878戸が消失、4,360人が罹災した。8月12日には、平井小学校が機銃掃射を受けた。四山神社 熊本県荒尾市 荒尾空襲慰霊塔 慰霊塔建設記念碑。