天草四郎の船出、歴史を感じる海岸。
天草四郎乗船之地の特徴
天草四郎たちが船出した歴史的な地点です。
富岡城攻撃の敗北が象徴される場所で感慨深いです。
幹線道路の真横にあり、アクセスも便利です。
フェリーの鬼池港から富岡城へ行く海岸線の道路の途中にある。碑の脇には車が数台停められるスペースがある。天草四郎は本名を益田時貞[ときさだ]といい、肥後国に育ち、当時は大矢野島に移り住んでいた。一揆が勃発すると総大将となり、船で上島の上津浦に上陸し、島子[しまご]の緒戦に勝利した。その後、下島へ渡り本戸(本渡)の合戦でも、富岡城番代の三宅藤兵衛を討死にさせ勝利した。その勢いで富岡城へ迫り猛攻したが、新しく城番となった原田伊予が良く守り、落城させることが出来なかった。そこで、一揆軍は島原の一揆勢と合流し、原城へ籠城することを得策と考え、ここ坂瀬川から島原へと渡った。さて、天草四郎の出自については色々ある。豊臣秀頼の落胤説や、秀頼と千姫の子の千代姫と真田信繫(幸村)の子大助との子などである。前者は、新潮文庫の「秘録 島原の乱」(加藤廣著)にあり、後者は、角川の時代小説文庫「戦国、夢のかなた」(岡本さとる著)にある。いずれも天草・島原の乱を単なるキリスト教徒の一揆としてではなく、徳川vs.豊臣の最後の戦いと捉え、明石掃部や福島正則まで登場してきて、信じ難いが誠にロマンがあって面白い。《2023.7.20訪問》
天草四郎乗船之地があります。天草に戻ってきた天草四郎率いる一揆軍は、天草を治めていた富岡城城代・三宅藤兵衛らを倒し、その敗残兵が立てこもった富岡城(現在の苓北町)を攻撃した。堅固な富岡城はなかなか落ちず、やむなくキリシタン一揆軍は富岡城攻撃をあきらめて、再度、この地から島原に向かったといわれています。
終に富岡城を落とせなかった天草四郎たち蜂起の一揆衆は、ここから島原へ船出したと伝えられている。強風の夕暮れ時に、僕は遠く霞む島原を見つめていた。往時を感じながら。
後一歩の所まで攻めながら富岡城の囲いを解く無念な決断、城から二里以上も歩き此処から乗船して対岸の島原へ、その後を知っている身としては合掌にも力が入ります。
帰り道に夕陽がとても綺麗でした。
天草の乱で敗れた天草四郎たちはここから島原へ渡り、原城で…
富岡城攻略を諦めた一揆軍は島原へ渡ります。その乗船之地がここという事で碑がたってます。
偶然見つけた天草らしい碑。立派ですね。
海岸線を走っていると現れたので、Uターンして撮影。ちょうど小学生の下校時刻と重なり、生徒からの挨拶にほのぼのとさせられました。ありがとうね。
名前 |
天草四郎乗船之地 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP |
https://www.smartguide.name/reihoku-sg/guide/guide_detail.cfm?voice_data_id=9 |
評価 |
3.3 |
周辺のオススメ

ここから島原の原城へ向けて出発したとされる場所。歴史の転換点となった場所でもある。鳥の群れも島原の方角へ飛んで行った。2025.2.20