龍馬の足跡、入江和作邸で辿る歴史。
入江和作邸跡の特徴
入江和作邸跡は、奈良屋という酢の醸造所の歴史を感じられます。
龍馬が泊まった宿として、有名な長崎街道の一部です。
薩摩から太宰府経由で達した歴史的な旅路を体験できます。
入江和作の家は奈良屋と言う酢の醸造所でした。幕末、維新の志士たちを援助しました。維新後の入江和作ですが、下関のキリスト教の保護、梅光学院の創設などに貢献したようです。墓所は近くの引接寺の直ぐ裏の墓所にあります。
入江和作邸跡 龍馬が、薩摩から太宰府経由で、長崎街道を上り、黒崎から渡船で彦島におり、最初に泊まったのが入江和作邸でした。著書 坂本龍馬日記、によると以下のようです。1865年6月頃のいい季節に二人で長崎街道を歩いています。そして、下関で桂小五郎と会っています。1865年3月神戸海軍操練所が廃止された後、龍馬は薩摩藩のお世話になります。その後、西郷隆盛らと船で鹿児島に向かい西郷宅などでお世話になります。そして、西郷の同意のもと薩長同盟に向け、下関で桂小五郎に会うために鹿児島を出発します。途中、伊集院、市来港止宿、川内宿、阿久根宿、そして泉米津まで歩き、ここで乗船し肥後に入っています。肥後で3度目となる横井小楠宅訪問を果たしています。ここで薩長連合の提案をしましたが、強く反対された、という話しがあります。一方、そのような話は無く穏やかな雰囲気で終始した、との説もあります。なお、前者の説を支持する方が多いようです。この後、龍馬は、太宰府に行き薩長連合の話を五卿に説明しています。五卿の周りに居た長州の方を通じて、身の危険なく下関に入れるように桂小五郎へ手紙で連絡をお願いしています。その頃はまだ龍馬と桂との面識はありません。桂から身の安全を保障する、との返事が届いてから下関へ出発しています。長崎街道を歩き木屋之瀬宿に泊まり、次の日、黒崎宿の平町で乗船し、彦島を経て下関に出向いています。なお、太宰府からの同行者は黒岩直方、という人のようです。下関到着が1865年6月。この後、話しが進展し、龍馬や桂小五郎などが鹿児島から船で来る西郷隆盛を待ちますが、急用ができたとのことで、西郷を乗せた船は大阪に行ってしまいます。その船に同乗していた中岡慎太郎が佐賀関で降ろされ、慎太郎は、佐賀関から漁師の船で下関にその旨の連絡に来ています。慎太郎の下関到着が1865年7月。以下省略。時間の流れを見ると、上記話はたった4ヶ月間の出来事だったんですね。
名前 |
入江和作邸跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
http://mandarinhistoricalplace.web.fc2.com/historical_place/kazusaku_irie/index.html |
評価 |
4.0 |
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入江和作の家は奈良屋と言う酢の醸造所でした。幕末、維新の志士たちを援助しました。維新後の入江和作ですが、下関のキリスト教の保護、梅光学院の創設などに貢献したようです。墓所は近くの引接寺の直ぐ裏の墓所にあります。