昭和61年再建の不動堂で心静まる。
押付新田不動尊の特徴
不動明王を御本尊とする真言宗の寺院です。
昭和61年に再建された不動堂が魅力的です。
昭和58年の火災からの復興が歴史を物語ります。
不動明王を御本尊とする真言宗の寺院(不動堂)で、昭和61(1986)年5月造立の『不動堂新築記念碑』には、昭和58(1983)年8月22日の集会所火災を起因として不動堂及び御本尊も類焼、共有地を売却し建設資金を調達することで昭和61(1986)年3月に再建と碑文に記されます。境内には不明塔を含めた数多くの庚申塔及び石仏類が奉納されています。<不明塔>・造立年記不明=2基・天保14(1843)年3月造立=1基<庚申塔>・造立年記不明=7基・元文3(1738)年3月造立=1基・安政2(1855)年3月造立=24基・万延元(1860)年11月造立=3基・文久2(1862)年3月造立=1基<石仏類>・万治2(1659)年10月19日造立の十九夜塔・延宝3(1675)年10月16日造立の十六夜塔・元禄3(1690)年10月8日造立の時念仏塔・宝永7(1710)年10月造立の寒念仏塔・宝暦6(1756)年1月6日造立の廻国塔・安永3(1774)年11月造立の廻国塔・天明7(1787)年4月造立の石祠・文政11(1828)年11月/天保12(1841)年2月造立の三山百番塔・天保13(1842)年1月造立の馬頭観音塔・昭和61(1986)年11月造立の交通安全地蔵尊本堂には再建時の昭和61(1986)年奉納の扁額、天保14(1843)年9月奉納の手水舎、境内社として文化9(1812)年銘の金毘羅社、天神宮(御祭神:菅原道真公)が鎮座し、江戸時代の文化文政年間(化政文化/1804~1818~1830年)に河内郡(龍ケ崎市・稲敷市・河内町の一部)、北相馬郡(利根町・龍ケ崎市の一部)、下埴生郡(栄町)、印旛郡(栄町・本埜村)の一部に四国八十八ヶ所巡礼者が砂を持ち帰り開創した霊場『四郡大師』の15番・36番札所に指定されます。昭和61(1986)年の再建時に建立された押付新田集会所前に駐車スペースあります。
| 名前 |
押付新田不動尊 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
|
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こちらの真言宗の寺院、通称「不動堂」に立ち寄らせていただきました。私は歴史的な背景を持つ場所や、地元の古い信仰の形が残る場所を巡るのが好きでして、このお寺もその一つとしてリストに入れていた次第でございます。このお寺の歴史を調べますと、非常に興味深いエピソードがあることがわかりました。ここは不動明王を御本尊としておりますが、昭和五十八年に集会所の火災が発生し、その火災によって不動堂と御本尊までもが類焼してしまったとのことです。これは地元の方々にとって、計り知れない衝撃であったに違いありません。しかし、ただ手をこまねいていたのではなく、地域の方々が共有地を売却して建設資金を調達し、わずか数年後の昭和六十一年に見事に再建を果たされたという経緯が、境内の記念碑にしっかりと刻まれておりました。この碑文を読んだとき、地元の信仰心や、何かを失っても自分たちの手で再び立ち上がらせるという強いコミュニティの絆に、心から感銘を受けました。再建された不動堂は、その熱意の結晶なのだと感じます。境内をゆっくりと巡らせていただきますと、その歴史の深さを物語るかのように、数多くの石塔や石仏類が奉納されていることに気づきました。特に圧巻だったのが、膨大な数の庚申塔でございます。造立年記が不明なものも含め、元文三年、安政二年、万延元年、文久二年など、江戸時代中期から幕末にかけての非常に幅広い時代のものが確認できました。特に安政二年に造立されたものが二十四基と多く、当時のこの地域における庚申信仰の熱心さがひしひしと伝わってまいります。これだけの数が一箇所に集められている様子を目の当たりにすると、ただの石塔というよりも、地域の人々の長きにわたる祈りそのものが、そこに凝縮されているような感覚を覚えます。また、石仏類も多岐にわたっており、万治二年造立の十九夜塔、延宝三年の十六夜塔、元禄三年の時念仏塔、宝永七年の寒念仏塔など、これまた江戸時代の初期から中期にかけてのものが多数確認できます。それぞれの石塔が、当時の村人の生活、信仰、そして季節の行事と密接に結びついていたことを想像させます。特に、廻国塔が二基、三山百番塔も奉納されていることから、この地を訪れた巡礼者たちの存在や、広範囲にわたる信仰の交流があったことも推測できます。一番古い十九夜塔は、私が生まれる遥か昔のものですので、その時間の重みに圧倒される思いで手を合わせました。本堂の正面には、再建時の昭和六十一年に奉納された扁額が掲げられており、歴史を感じる石塔群の中に、比較的新しい、しかし力強い現代の信仰の証が共存しているのが印象的でございました。また、手水舎は天保十四年奉納の銘が残っており、火災を免れたのか、あるいは再建の際に残されたものか、当時の風情を今に伝えてくれています。境内社として鎮座する金毘羅社や天神宮、御祭神である菅原道真公を祀る社も拝見いたしました。特に金毘羅社には文化九年の銘がございましたので、これらもまた古い歴史を持つものであることがわかります。そして、この不動堂が、江戸時代の文化文政年間にかけて開創された霊場「四郡大師」の札所の一つ、十五番と三十六番に指定されているという点も、私のような巡礼や信仰の歴史に興味を持つ者にとっては非常に魅力的な情報でした。四国八十八ヶ所巡礼者が持ち帰った砂によって開創されたという背景を知ると、この小さな寺院が持つ歴史的な役割の大きさを改めて感じさせられます。車で訪問した私にとってありがたかったのは、再建時に建立された押付新田集会所の前に、駐車スペースが用意されていたことです。おかげさまで、安心してゆっくりと境内を拝観することができました。遺構としての派手さはないかもしれませんが、この不動堂は、火災からの力強い再建の歴史、そして多種多様な石塔群が物語る地域の人々の深い信仰の歴史が詰まった、非常に意義深い場所でございました。古いものが多く残るこの場所で、遠い過去に生きた人々の祈りの気配を感じながら、静かに時間を過ごすことができたのは、得難い体験でございました。