森鴎外の史跡巡り、歴史に触れる。
亀井(南冥・昭陽)家の墓の特徴
森鴎外の小倉日記に登場する史跡です。
南冥、昭陽の墓は浄満寺境内に位置します。
県指定の史跡として訪れる価値があります。
森鴎外の「小倉日記」に記されている鴎外の史跡巡りで初めて知りました。Wikipedia亀井 南冥(かめい なんめい、寛保3年8月25日(1743年10月12日) - 文化11年3月2日(1814年4月21日))は、江戸時代の儒学者で、医者、教育者、漢詩人。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。亀門学の祖。
県指定 史跡南冥、昭陽の墓は、浄満寺境内にある。南冥は、寛保3年(1743)、早良郡姪浜村(現在の西区姪浜町)に、町医者の長男として生まれた。 幼い時から詩文を学び、19歳の時、京阪の地に出て医学と儒学を修め、さらに山県周南を師として荻生狙徠の古学を学んだ。 23歳の時、居を福岡城下の唐人町に移し、南冥と号した。宝暦の末年には亀井塾蜚英館を開き、その奔放自在な学説と独自の教育で、門下に多数の人材を育てた。 36歳で、町医から藩の儒者兼医師として抜てきされ、15人扶持の士分となった。後、7代藩主治之の侍講をも務めた。 天明3年(1783)、42歳の時、福岡城の東西に東学問所修猷館と西学問所甘棠館が開講した際、西学問所の教頭(校長)に迎えられ、150石を扶持されるに至った。 しかし、朱子学を奉ずる修猷館とは対立し、幕府の「寛政異学の禁」もあって、職を追われ、失意の晩年を過ごした。 文化11年(1814)3月3日、たまたま発生した自家の火災で落命した。 なお、天明4年(1784)2月23日に志賀島の叶の崎で百姓甚兵衛により農作業中に発見された金印について、「金印弁」を著した。 南冥の長子昭陽は、南冥の学統を継ぎ、平野国臣など多くの門弟を育てた。天保7年(1836)5月、百道松原の百道林亭の学舎において、64歳で没した。
| 名前 |
亀井(南冥・昭陽)家の墓 |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.7 |
| 住所 |
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昨日偶然生誕地を見ました。