坂道の先に広瀬神社、大吉の待つ場所。
広瀬神社の特徴
広瀬神社は、明治に転城に伴い遷座した歴史ある神社です。
参道の急坂は、訪れる者の息を上げてしまうほどの傾斜です。
事代主之神や大国主命を祀る、引き締まった雰囲気の境内です。
参道の坂が急ですね。
明治に入り、佐土原藩が佐土原城からここ広瀬の地への転城に伴い、氏神を遷座させた物となります。広瀬城自体は建築途上で廃藩置県となり、現在敷地は広瀬小学校となり、その面影はほぼ残っていないのですが、この神社や広瀬城址の碑が転城の歴史をかすかに伝えています。また、佐土原神社が佐土原城の隣にありながらもどこか簡素なのもこれで納得できるかと思います。様々な神社を合祀していますが、基本は島津氏の信仰する諏訪神社や稲荷系がメインとなっており、由来に納得できると思います。神社は無人社となっており、カーナビに案内を頼んだら、宮司宅と思しい物の、離れた住宅に辿り着いた思い出があります。その日は17:00を過ぎましたのでやむなく退散し、後日事前アポを取り広瀬神社境内で宮司さんと落ち合い、御朱印を戴いた記憶があります。広瀬城は完成しませんでしたし、もしできたところで天守はなかったと思われます。しかし、この神社から周辺を見渡せば天守に立った気分に少しでも近づけますし、目の前を流れる石崎川を水堀に見立てつつ、水運を利用して年貢米を城に運ぼうとしていたのかなど想像が働きます。歴史を辿るよすがを与えてくれる神社であります。[由緒]当社は明治維新に当たり、藩政庁が佐土原から広瀬に移転するに際し、佐土原にあった諏訪、大安、稲荷の3社を合祀し、明治5年(1872年)9月16日現在の広瀬郵便局の位置に移転し、郷社広瀬神社となる。その後、明治40年(1907年)広瀬にあった広瀬、八坂の両社を合祀、また昭和17年(1942年)千代稲荷神社を合祀した。昭和49年(1974年)に現在の地に移動・改築され今日に至っています。諏訪、大安、稲荷神社の由緒は次のとおりである。[諏訪神社]天文19年(1550)6月20日、島津忠将の長子以久が生まれた。此の日未明、何処からか1旒の旗が舞い来って、産所の棟上に懸った。忠将異んで侍従池田備後に見せたところ、忠将の常に崇拝する諏訪神社の神旗であることが判った。忠将はこの吉瑞を悦び、その旗を神体として備後に祀らせ、その弟が祠官となった。慶長8年(1603)、以久が佐土原に封ぜらるるや―旧佐土原藩の藩祖―諏訪神社を勧請して下馬場に祀り、のち承応2年(1653)諏訪の馬場に遷した。[大安神社]ある時以久の夢に父忠将が現れ、「われを崇めて天下大明神と称すべし」と告げた。そこで以久は永禄8年(1565)社を建てて父の霊を祀り、社名を大安神社と称した。[稲荷神社]島津氏の祖、忠久以来島津家の尊信したもので、初め社は佐土原城内にあったもので、城頭稲荷とも称していた。
令和2年1月3日参拝御朱印あり祭神:事代主之神、大国主命、稲田姫命、健御名方之神、品蛇別命、蛭子大神、火産霊神、宇迦之美玉神、素盞嗚命、島津忠将之神霊旧社格:郷社藩政庁が佐土原から広瀬に移転するに際し、佐土原にあった諏訪、大安、稲荷の3社を合祀し、明治5年9月16日現在地に移転し、郷社広瀬神社となった。その後、明治40年広瀬にあった広瀬、八坂の両社を合祀、また昭和17年千代稲荷神社を合祀した。
高台にあり傾斜の高い坂道なので、普通に歩いてても息が上がります。境内な木々に囲まれていてちょっと良さげな雰囲気です。
小高い所に有る神社です。下の駐車場は満杯にも関わらず、境内は誰も居なくて静かでした。
大吉でした‼
| 名前 |
広瀬神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 電話番号 |
0985-73-0560 |
| 住所 |
〒880-0211 宮崎県宮崎市佐土原町下田島20292−1 |
| 評価 |
4.2 |
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初めて参拝しました。10神祀られています。✨