平塚宿の歴史を感じる旅。
平塚宿江戸見附跡の特徴
江戸時代の重要な要所、平塚宿の歴史を感じる場所です。
様々な見附の形式が展示され、江戸見附に特に注目が集まります。
平塚宿が歴史的に持つ役割や街の雰囲気を学べる貴重な体験ができます。
旧東海道踏破チャレンジ2025見附のことがよく説明されていて、絵や写真もあり分かりやすく参考になります。
東海道をはじめ江戸から四方に伸びる主要街道の整備は幕府開府の直後に始まり、一里毎に目安となり旅人には緑陰を提供する塚を設けたり、それが数百年に渡り整備されていまだに国道の主要街道になってるんだから大したもんだ。特に平塚の東海道跡はさまざまな遺跡が残っていて、関係者各位の努力があってこそ、当時の情景が目に浮かぶ。見附の岩で組んだ構造物の上に竹矢来が組まれて道の両側に控えていたのだから、いかにもまもなく江戸なんだという物々しさを感じただろう。
各宿場町に見附跡があるが、平塚見附跡はキチンと整備され、当時の面影が偲ばれます。ここから、西が平塚宿、日本橋から数えて7番目。先はまだ遠いですね。江戸時代の人は14日間で歩いたそう。一日で40キロ。健脚です。
各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。現在、その名も見附町に復元されている「江戸見附」は、明治初期に駐日イタリア公使のバルボラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されたものです。2023.3付近を通行参考に成りましたら、いいねをポチッとなでお願いします。
元々は見附とは江戸時代、城下に入る門を指し、城下に入る者の見張り場を意味するものとされた。平塚は、旧東海道の宿場町であり、宿を守るために街道沿いに見附が設けられ、防御施設として町の中の宿を守る機能を果たしていたようである。ここは、かつて東海道があったところであり、見附は、道に直角に位置し、両側に2つ設けられていたと言われる。また両側の見附は、少しずれて建てられたが、宿と宿の間の距離を図るための正式な基準としての役割を果たしていたとされる。平塚宿には見附が2つあり、ここの見附は江戸側にあり、京側の見附と区別するため江戸見附と呼ばれている。平塚宿は、東海道の宿場として慶長6年(1601年)に成立した。この地が平塚と呼ばれているのは、桓武天皇の3代の孫の高見王の娘政子が、この地で没し、ひつぎを埋め塚を作ったが、塚の上が平らであったことからだとされたが、今は政子の実在の確証は無く、伝説であると考えられている。
街中にあって気づかず通り過ぎてしまうかも。案内板はあります。
見附の跡地。説明看板と積まれている石が当時の光景を想起させます。十字路の各所に積み石があります。
東海道と平塚宿を思い起こさせます。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り‼️
| 名前 |
平塚宿江戸見附跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0463-20-5110 |
| 住所 |
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| 評価 |
3.5 |
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平塚宿の江戸側の境界。監視所(警固所)があった。