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| 名前 |
真嘉比殿内 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
ウォーキングで巡る那覇の河川・樋川・井戸・湧水その123【那覇市真嘉比2丁目】2021/04/18修正2021/05/09①場所(真嘉比2-34-7)●真嘉比自治会館の前の道を北に進んで突き当たりを左、一つ目の十字路角に赤瓦屋根の建物が真嘉比殿内です。大戸屋ごはん処真嘉比店近くの信号を北向けに進んで、一つ目の十字路を右に曲がってすぐの赤瓦屋根の建物が真嘉比殿内です。●この辺りは、真嘉比村真嘉比原(マカンバル)と呼ばれていた。~~~加筆及び一部削除~~~②中井戸(ナーカンカー)●中井戸は真嘉比殿内の敷地内にある共同井戸である。西池と近接し、井戸底で池と繋がっていたため、飲料水として不適だったことから、農業用水として供用された。真嘉比殿内は西池(イリンクムウ)、東池(アガリンクムイ)それぞれの拝所があったがそれを埋め、2007年に一つにまとめて真嘉比殿内になった。東池は現 真嘉比交番、西池は現 真嘉比殿内にあった。③東池(アガリンクムイ)●東池は芋新居と馬の水浴びに適していたため、馬繋ぎとして池の南側に松の杭が打たれていた。また同時に養魚(鯉)池としての役割もあった。大変利用価値のある池であったが、その役目も終わり埋め立てられた。またその際、二ヶ所あった東ヌ殿内小・西ヌ殿内小を一ヶ所にまとめ、東池の敷地に移転した、当時は「殿内小(トゥンチグヮー)」と呼ばれていた拝所は、2007年に西池跡地に移転され、真嘉比殿内と呼ばれるようになった。④西池(イリンクムイ)●西池は芋洗いや野菜の水かけ、畜舎の清掃に使用されていた。参照:真嘉比字誌~~~~~~~●真和志間切真嘉比村には脇地頭家として向氏嘉味田殿内がいたとの記録があり、嘉味田殿内=真嘉比殿内なのかは不明。地方の名家(必ずしも士族と限らない)に対しても殿内の呼称を使う場合があったので、真嘉比殿内は真嘉比の根屋なのかもしれない。③真嘉比村●琉球王国時代、現在の真嘉比(まかび)・古島(ふるじま)地域は、真和志間切(まわしまぎり)真嘉比村と呼ばれ、小字(こあざ)真嘉比原(現真嘉比自治会館周辺一帯)に集落が形成された。1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)の後、真和志間切真嘉比村は、1908年(明治41)真和志村(そん)字真嘉比となり、1920年には字真嘉比の北東地域が字古島として分離した。古島を含むかつての真嘉比村は、首里・那覇に隣接する純農村地帯で、サトウキビや真嘉比川周辺の真嘉比川原(マカンジャーラ)の田芋(たいも)は特に有名であった。また、首里(儀保村(ぎぼむら))から那覇(崇元寺(そうげんじ))に至る真嘉比道(マカンミチ)と呼ばれる道が通っており、一部には石畳が敷かれていた。この道は、首里の人々が人目を避けて那覇の辻(つじ)に行くために通ったり、末吉(すえよし)・西原(にしはら)村辺りの人々が那覇の市(マチ)に荷を運ぶために利用したという。真嘉比道周辺の丘陵には数多くの墓が建立されており、幽霊話の舞台ともなった。沖縄戦後の1957年(昭和32)に那覇市と真和志市(当時)が合併した際、那覇市字真嘉比、那覇市字古島の行政区域が誕生した。2000年頃までは、真嘉比地域でも集落の形態や真嘉比道、周辺の丘陵・墓などもかつての姿を残していたが、土地区画整理事業が進み、見違えるほど整備された街が誕生した。参照:那覇市歴史博物館那覇市内史跡・旧跡案内真嘉比村参照:真嘉比マップ(PDF)参照:まちのたね 那覇市繁多川公民館真嘉比殿内参照:真嘉比字誌。