西郷頼母の碑で会津の歴史を感じる。
家老西郷頼母邸跡地の特徴
西郷頼母の妻たちが自決した壮絶な歴史が刻まれています、石碑だけが残る邸跡です。
鶴ヶ城の近くに位置し、会津の歴史を深く感じられる場所です。
西郷頼母の家族の悲劇と勇気を伝える重要な文化財がここにあります。
鶴ヶ城の北、一之丁にあります。あじさいが綺麗です。
会津の歴史を改めて知り来てみたかった。車の通りが多い所でした。この場所で、頼母の女達は命をたったのだのだと思うと、あの時代の人達が生きていくことの大変さが感じられました。頼母自身も苦しんだことでしょう。新年元号令和と言うまた新たな時代に変わり、今会津は、幸せでありますと手を合わさせて頂きました。
頼母の妻(千恵子)は、頼母達が籠城戦のため城へ向かった後「恥辱を受ければ家名の恥になる」と、残った婦女子・幼子21名全員自刃したという壮絶な話が残っています。
お城近くにあったんですね。武家屋敷で見たお屋敷と悲劇を思い描きますと感慨深いものをこの場所で感じました。
邸跡は石碑のみ。西郷頼母邸と、最後に果てた長屋がほぼ斜め向かいであり、元屋敷跡をみながら、何を思って死んだのかに思いを馳せると感慨深い。
石碑があるだけです。
鶴ヶ城すぐ近くに大きな碑があります。奥方はじめ女子は皆自決した悲しい話が残されていますが、詳しくは東山温泉手前の武家屋敷のところで復元?された建物と話を聞くことができます。
会津藩の家老 西郷 頼母(さいごう たのも)の碑会津戦争時に長男以外は戦争の足手まといにはならないようにと自決長男と共に生き残ったものの長男は22歳のときに病死全国を回って最後に妻の墓の隣に眠るため70歳を過ぎて会津に帰ってきている。生き残ってしまったがゆえに悲しい人生を送った人。
跡地には石碑しか残っておりません。
名前 |
家老西郷頼母邸跡地 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.7 |
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① 西郷頼母の妻、子女は戊辰戦争に際し、「足手まといになりたくない」という理由で集団自決した。生き残った長男も21歳で早逝している。② 頼母が養子に迎えた西郷四郎は、小説『姿三四郎』のモデルになった柔道の達人。大東流合気柔術、講道館の後継者と目されたが、どちらも継がず失踪する。③ 西郷頼母、西郷隆盛は、肥後菊池氏を祖とする遠い親戚。戊辰戦争以降、両者には交友があったと考えられる。