華族女学校の遺蹟碑、平河町で写真撮影。
華族女学校の遺蹟碑の特徴
華族女学校は女子学習院の前身で歴史がある史跡です。
平河町交差点のすぐ南に位置し、アクセスも便利です。
細い道を下ると見える、隠れた名所として知られています。
参議院議長公邸の塀外の角地に、「華族女学校の遺蹟碑」があります。昭和18年(1943)に建てられた碑で、碑文は何とか判読可能。華族女学校は、後に、学習院女子部になっています。
華族女学校は女子学習院の前身です。****************************************************皇宮付属地の四谷区尾張町(現在の初等科)に創設された華族女学校は明治20年には御料地の麹町区永田町の新校舎に移転した。(現在の参議院議長公邸、昭和18年この華族女学校遺蹟碑を建立)華族女学校は明治39年には学習院に合併され学習院女学部となったが、大正7年に女子学習院として再び独立し、青山練兵場跡地の赤坂区青山の新校舎に移転した。(現在の秩父宮ラグビー場)女子学習院は昭和20年に大空襲により校舎が全焼し、目白の徳川義親侯爵邸を仮校舎とし、その後音羽の護国寺の月光殿や境内の音羽幼稚園なども使用していた。(仮校舎として使用した徳川邸本館はその後八ヶ岳高原ヒュッテとなった)昭和21年3月に牛込区戸山町の近衛騎兵連隊跡地を新たな校地とすることにした。この広大な敷地と兵舎跡が無法集団に占拠されないうちにと、早春の残雪の中を徳川邸から生徒達が行進し、将校集会所(女子部では礼法室として使用)に「女子学習院」の校札が掲げられた時、教職員の中から期せずして万歳の声が挙がったという。女子部ではこれを「雪中の進駐」と言っていた。昭和22年に学習院及び女子学習院は一体化して、私立の財団法人学習院となった。四谷の初等科は男女共学とし、戸山の女子中等科、女子高等科は別学となった。女子中・高等科は女子部と称していたこともある。****************************************************という事だそうです。
平河町交差点の南、細い道を下るとすぐ右手にある。華族女学校のあった永田町の校地跡(現 参議院議長公邸の通用門前)に昭和18(1943)年、常磐会によって建てられた。
平河町交差点の南、細い道を下るとすぐ右手にある。華族女学校のあった永田町の校地跡(現 参議院議長公邸の通用門前)に昭和18(1943)年、常磐会によって建てられた。
名前 |
華族女学校の遺蹟碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.6 |
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戻って写真撮りあらためて行きますね。