歴史の息吹感じる国分寺。
武蔵国分寺の特徴
武蔵国分寺跡は、深い歴史を持つ地域にあり、周辺には神社や薬師堂も点在しています。
聖武天皇の詔で、造営された国分寺の後継寺院。分倍河原の合戦で、この国分寺は焼失したとのことですが、鎌倉幕府の末期まで存在していたことに驚かされます。その後、鎌倉方と戦った新田義貞により再建され、今の寺院まで繋がる訳ですが、この寺域の佇まいが非常に良いです。あたかも京都か鎌倉の山裾の古刹に来た観があり、此処が東京だとは思われないです。木枯らしの強く吹く12月の中旬に訪れましたが、花咲く春や蛍が飛ぶ夏にまた来たいと思いました。
久しぶりにサイクリングに出かけ、知人宅前の公園でひと休み。国分寺のご厚意で開放されている公園で子供向けの遊具も設けられています。傍らに戦没者の慰霊碑等があり手を合わせたうえで裏側を拝見。地元の戦没者の氏名が沢山刻まれていました。順番に見ていくと妻のおじさんの名前を発見。妻の父母(故人)からも聞いていなかったのでビックリ!楼門、仁王門、鐘撞、薬師堂は時代を感じます。お隣にはのお鷹の道やカフェもあり散策も楽しめます。南にも跡地が広がり、緑も多く暑さを忘れられる一時でした。
最寄り駅 JR中央線 国分寺駅徒歩20分位拝観料は無料山号 医王山宗派 真言宗豊山派本尊 薬師如来奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、武蔵国国分寺の後継寺院にあたる。『医王山国分寺縁起』によれば、武蔵国の国分寺は、元弘3年(1333年)の分倍河原の戦いで焼失し、建武2年(1335年)、新田義貞により薬師堂が再建されたという。その後衰退し、1725年に本堂が再建され、宝暦6年(1756年)頃に薬師堂が再建された。との事です。聖武天皇時代の国分寺かをそのまま残っている訳ではありませんがそれでも古い歴史あるお寺です。本堂前の楼門や薬師堂、仁王門が素晴しい作りで薬師堂は雰囲気が最高です。お堂の裏に石仏が並んでおり四国八十八ヶ所に因んだ物だそうですが壮観な眺めです。
江戸時代の建築様式を取り入れた立派な門を進むと、広い境内を備えた武蔵国分寺があります。
この辺りは神社があったり、薬師堂があったり、仁王門があったりと、深く長い歴史のある一帯ですね。こちらのお寺も本堂は大きく、境内に入る前には大きな門が参拝者を迎いれてくれます。
この辺りは武蔵丘陵地で奈良時代は中野辺りまで海辺が来ていて、高台だったリ、水源があったが故、このお寺の周辺部に住居跡が集まっていたのでは。
お寺です。いわれは深いんだろうなぁ、よー、わからんけど。でも、ここいら一帯、人が穴居時代から住み続けてるんだよね。当時も寺ってあったんかね。ないよねぇ。要はここは、この界隈一帯は、人間の生活があったって場所なんだ。そこに中央政府の建立指示のもと、お寺さんが建てられた。建てたのは政府の威光を示す?ため? まぁ、人々の生活・考えを宗教的側面から支えることを通じて、国家の安定を図ったんだろうけど、でもそれは、実際の当地ではどうだったんだろうね。お寺、ここにいた人達にとっては、この地にいる人々に寄り添うように建立されたものなんだ、と思ったんじゃないかな。人とともにあれ。ここに居る人と共にあり、導こう、と考えたんだろうな、と思う。ありき、じゃないんだ。あってこそ、なんだ。人を救う存在、あってこそなんだ。だから、ありがたい。
広大な武蔵国分寺跡の一隅に、真言宗豊山派の国分寺がある。国分寺跡から続く一本道の先に石段があり、それを上ると古い仁王門があり、更に、石段を上がると薬師堂が、その歴史を物語るかの如く建っていた。並立している八幡神社に手を合わせて帰ろうとしたが、横道に入ると大きな山門が目に止まり、そこが国分寺であることに気が付いた。境内は、この宗派の総本山長谷寺を始めとし、草花を大事にする特色を存分に表現している。周辺も散歩コースとして整備されており、年配者が静かな時を過ごしていた。
多くの人が知っているけど、あまり行ったことはない場所。武蔵国の国分寺。東京郊外とは思えないこの一角だけ鎌倉や京都の路地に迷い込んだ感覚になる。とても不思議な場所。
名前 |
武蔵国分寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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武蔵国分寺跡の北側、国分寺崖線を背に建つこちらの寺院は、鎌倉時代末期の分倍河原の戦いで旧武蔵国分寺が焼失した後に新田義貞によって再建された後継となる国分寺です。