大塩平八郎の槐跡で歴史を感じる。
大塩の乱 槐(えんじゅ)跡の特徴
大塩平八郎の乱が起きた場所で、歴史を感じることができます。
樹齢200年の槐が砲弾で裂けた印象的な碑があります。
2010年に新しく植えられた槐の木もぜひご覧ください。
碑が建つのみ。造幣局前の歩道にひっそりと。
大塩の乱 槐跡地大阪造幣局前の歩道にあります。
◽アクセス▪️Ⓜ️堺筋線・谷町線/南森町駅/東改札(徒歩12~13分/800m)▪️旧洗心洞北側の道路(国道1号線)沿道傍◽「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」 の碑▪️当地は、東組与力 朝岡助之丞 役宅庭跡で乱の当日、最初に大砲が打ち込まれたところとのです。砲弾を受けた樹齢200年の槐の木が枯れてしまい、若木を植樹するも現在は石碑だけになっています。◽「大塩平八郎」 史跡( 1 )八軒屋浜( 2 )成正寺 (大塩平八郎の墓/菩提寺)( 3 )蓮興寺 (実家菩提寺/非公開)( 4 )大阪天満宮 (大塩の乱で全焼)( 5 )川崎東照宮跡 (大塩方集結地/滝川小学校)( 6 )洗心洞跡 (大塩平八郎家塾/造幣局宿舎内)( 7 )天満与力 「中嶋家役宅門」( 8 )大塩の乱・槐(エンジュ) 跡碑( 9 )東町奉行所跡(10)西町奉行所跡(11)大塩平八郎終焉の地碑(当碑に隣接する靱油掛町の美吉屋五郎兵衛宅に潜伏するも、幕吏に包囲され自焼して果てる)
大阪造幣局前の路上にあり、大塩平八郎、関西人の心意気を感じます。南無。
大塩の乱でここにあった樹齢200年の槐に砲弾があたりさけた場所。
現在暦1837年3月25日(旧暦1837年2月19日)。大塩平八郎は「救民」の旗を掲げ、私塾洗心洞を門弟20名余、協力する一般民衆たちと共に出撃した。何門もの大砲も揃えていた。目標は米の買い占めを行う豪商、悪徳奉行と悪徳役人たち。しかし真の目的は幕府の崩壊そのものだった。大塩はすでに一般人民が日本を統治する日を読んでいた。この正義感あふれ止むに止まれぬ行動も密告により半日で終焉する。彼の檄文に「大坂の奉行竝諸役人共、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、.......下民を悩し苦しめ候役人共を先づ誅伐いたし......」とある。大塩は堪忍袋の緒を切ってしまった。明治維新の萌芽はすでに大坂で生まれていたのだ。結局彼の反乱は失敗するが、30年後大塩の願った封建幕府は倒壊する。いま槐跡に立ち、その日にタイムスリップすれば、進撃する、大塩平八郎の勇気と気概に満ちた果敢なる姿が見えてくる。
2010年1月に、石碑の横に新たな槐の木が植えられました。
あまり立ち止まる人はいませんが、是非ご覧になってください。
ここに天保八年(一八三七)二月、大塩平八郎の乱の砲弾で裂けた樹齢二百年の槐があったが枯死した。よって新たに若木を植え歴史の証人の生命を伝える。
| 名前 |
大塩の乱 槐(えんじゅ)跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ここに生えていた槐の樹が大塩の乱による砲撃で裂けてもうたんやとほんまに平穏な日常がひっくり返るような騒動やったんやろなまぁ…平穏って言っても庶民にとっては楽しみのほんまにない暗い日常であったのが目に浮かびます。