太閤秀吉の現役下水道見学。
太閤下水(背割下水) 見学施設の特徴
豊臣秀吉が築城時に設計した下水道を見学できます。
江戸時代の下水の姿が今も継承されていて驚きました。
NHKブラタモリで紹介された歴史深い見学施設です。
豊臣秀吉による町づくりにより、碁盤の目状に整然と区画された町が形成されました。町家の建物同士が背中合わせになるところに作った下水溝が背割(せわり)下水で、太閤秀吉にちなんで「太閤下水」とも呼ばれています。明治時代に大規模な改修も為され、今でも約20㎞に渡って利用されており、そのうち7㎞が大阪市の文化財として指定されている、歴史的に貴重な下水です。南大江小学校の西側に設置されたこの施設では、のぞき窓が設けられ、地上からでも様子を窺う事が出来るようになっています。また、事前申し込みが必要ですが、平日日中であれば内部への見学も可能だそうです。
大阪市中央区農人橋にある、大阪城遺構の一つです。豊臣秀吉公が大阪城築城🏯のときに、城下町を整備しています。この時に、東西に各家の背面に下水を作りました。豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。町づくりにあたっては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であったので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水溝は「背割下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の大阪は、この太閤(背割)下水に挟まれた約40間(72メートル)四方の区画が町割りの基本となっていました。現在は、南大江小学校の入り口横に背割下水が見学できるように、ガラスの覆いから見る事ができます。2メートルぐらい下に左右石垣がつまれた間を水がながれています。年技術センターに連絡したら、下水の下まで降りて見ることもできるそうです。滋賀県の秀吉公の甥の豊臣秀次公が1585年につくった、八幡山城🏯の城下町に下水道を流す「背割り排水溝(せわりはいすいこう)」がつくられています。これも大阪城の太閤下水からヒントを得たように思います。アクセスは、地下鉄中央線・谷町線「谷町四丁目」駅8番出口から徒歩5分です。
江戸時代に作られたとありましたが。太閤下水というのは何故?17世紀では秀吉が死んだのは1598年家康が死んだのは1616年大阪を結城家が収めていのは3年くらいで将軍の大阪での宿泊 天領としての大阪を治めるため大阪城が天下普請で各大名に作らせた。時には作られた物かも?南大江小学校の隣です!
豊臣秀吉に関連する事柄を巡っている道中で見つけました。事前予約が必要とのことなので、コロナ禍が終息すれば下水の見学をしようと思います。
太閤さん凄い人ですね‼️⭕⭕
事前予約で中を見学。外から見えるとおり、スペースは狭かったです。中で担当の方が成立ちなど詳しく説明とA4サイズのカラーのパンフレットを頂けました。全員で写れる様に写真撮りましょうか?など声をかけていただいたり終始、楽しい時間を過ごせました。
江戸時代の下水の姿を今でも覗き見ることができます。ただ、透明のプラスチックがもはや半透明どころかそれ以上に曇ってて、クリアに見れません。もう少し管理してもらいたいですね。
江戸時代に作られた下水をもとに整備して、現在でも使用されています。窓から下水が流れているところを覗くことが出来ます。のぞき窓に擦り傷が多くて汚れていることや、天候や時間帯によっては日差しがのぞき窓に反射してに見えにくいので、覗く方向に注意。
太閤秀吉が作った下水道を地上から眺めることが出来ます。今なお使われている現役の下水道ですのであまり綺麗なものではありませんが…… 地下施設も事前に大阪市に予約しておけば無料で見学できるようです。
名前 |
太閤下水(背割下水) 見学施設 |
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ジャンル |
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電話番号 |
06-4963-2092 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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日本で唯一江戸時代に造られ、現役で機能している下水を見学できる。