江戸時代の富士信仰を体感!
目黒元富士跡の特徴
江戸時代に造られた人工の富士塚跡地に立つ貴重な史跡です。
富士信仰が盛んだった時代の歴史を感じることができる場所です。
東京音大の裏の坂を上ると広がる絶景が魅力的です。
江戸時代に富士山に登った気分を満喫するために造られた人工の築山跡地。江戸時代には頂上から富士山が見えたそうです。
富士塚跡。富士塚とは,江戸時代中期以降,庶民の間で大流行した富士山の代用として築かれた人工の小山のこと。富士山に登るためには,村人あるいは同じ長屋の住人などの中で登山希望者が集まって,富士講を結成し,講員がお金を少しずつ出し合って,なけなしの旅費を捻出。そして,くじ引きなどで選ばれた一部数人を富士山に送り出す(場合によっては,行者という修験道のガイドを雇う。),という方法をとっていた。当然,手形(関所を通るためのパスポートの様なもの。)の取得も必須であった。つまり,富士登山は,現代以上に容易なものではなかったのである。そこで,気軽に富士登山気分を味わえる富士塚の築造が盛んになった。どうやら文化九年(1812年),丸且講によって築かれた当地のものを「元富士」と呼んだそうである。これは文政二年(1819年),近藤重蔵が現目黒二丁目によって築かれた富士塚と区別するためだそうだ。なお,こちらを「新富士」と呼んだとか。「元富士」は明治十一年(1878年)に取り壊されたため現存しない。しかし,元富士に設置されていた文久三年(1812年)建之銘の富士講碑は,目黒氷川神社に移設されているという。
目黒元富士跡(めぐろ もと ふじあと)江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。 富士講の人々は富士山に登るほかに、 身近なところに小型の富士 (富士塚) を築きました。 富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、 人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812) に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。 文政2年(1819) に、別所坂上 (中目黒2-1) に新しく富士塚が築かれるとこれを 「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」 と呼ぶようになりました。 この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新富士」としてそれぞれの風景が描かれています。元富士は明治以降に取り壊され、石祠や溝の碑は大橋の氷川神社 (大橋2-16-21) へ移されました。平成22年12月 目黑区教育委員会。
富士信仰は江戸時代活発だった。
浮世絵に描かれた風景ではこのようになっていた。
江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。マンションの敷地にあったこの富士塚は、文化9年に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年 に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになったそうです。昔はここから本物の富士山が見えたのでしょうね。
移転してきた東京音大の裏の坂道を上がるとあります。富士山は建物の関係で見えないけど、散歩するには気持ちがよいところです。
目黒元富士は、文化9年(1812)に築造された富士塚。現在は、削られていて跡形も残っておらず、説明板があるだけです。
高台にあり、遠くがみわたせます。
名前 |
目黒元富士跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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今は無き富士塚を想像しました跡でもこのように説明文案内があるのはいいですね~