静寂の中で佐久間象山を感じる。
佐久間象山碑の特徴
野毛山公園の静かな自然に囲まれた立派な石碑です。
開港に尽力した佐久間象山を讃える歴史的な名所となっています。
読みやすく手入れの行き届いた石碑で、訪れる価値があります。
野毛山公園のど真ん中にあり手入れが行き届いておる石碑の立派さからしてかなりの年代物と推定してたが当時の横浜市長が建立したとても読みやすい石碑開港に尽力し坂本龍馬や勝海舟らの門弟を育成したオランダ語が話せ医学から兵学砲術に精通したパーフェクトヒューマンを讃える石碑でござる。
みなとみらい地区とは正反対の自然に囲まれた野毛山公園の中にある昭和29年に建立された碑。佐久間象山がいなければ今日の横浜はまた違った場所となっていたものでしょうね。
横浜開港に尽力した佐久間象山の碑です。大砲の鋳造やガラス製造、地震予知機の開発など江戸末期から明治の日本において先進的な取り組みをしていた朱子学者、儒学者で、当時は西洋かぶれと揶揄する向きも一部にはありましたが、五月塾を開き、勝海舟や吉田松陰や坂本龍馬に兵学や、砲術を教えたり、ペリー率いる黒船の来航した浦賀の開港に関わった方の碑です。
休日でも人気が少ないので、石碑を観ながらゆったりした時間を過ごせます。夜は危ないので明るい内に行きましょう!
野毛山公園内にあります。碑の前に階段があるのですが、少しぬかるみがあります。佐久間象山は幕末の兵学・洋学者として知られます。信濃松代藩士で黒船事件以前から開国を唱えていた開国論者。幕府の下田開港のうわさを聞き、これを批判、横浜開港に奔走しました。新しい日本の建設に力を尽したが、明治維新を見ることなく元治元年(1864)京都で亡くなり、昭和29年(1954)開国100年記念として野毛山公園の一角に彼の顕彰碑が建てられました。
佐久間象山の碑があります。
名前 |
佐久間象山碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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安政元(1854)年、ペリーの再来航に際し幕府は横浜に応接所を設置し、松代藩と小倉藩に応接所の警備を命じている。松代藩士・佐久間象山(さくまぞうざん・さくましょうざん)は、軍議役として警備に参加し、ペリー提督を間近に見て「思いの外穏便な者だったが、オランダ人よりは一回り大きく、丈も高く肉も随分付き太っていた」と記している。佐久間象山は身長が180cm近くと、当時の日本人の平均身長から考えるとかなりの大男だった。象山は開港場として、下田ではなく軍事上の利点から横浜村が最適の地であることを強く主張した。しかし横浜開港を持論に積極的に横浜開港を進めたのは井伊直弼(いいなおすけ)に仕えた岩瀬忠震(いわせただなり)で、一般的にはこのふたりが、横浜開港の立役者とされ、歴史的には佐久間象山が横浜開港に関与したとは考えにくい。※佐久間象山は、日米修好通商条約締結時、自分の門弟である吉田松陰が国禁を犯したために連座して蟄居中だった。また、岩瀬が佐久間象山の影響を受けていたことを示す資料は見つかっていない。碑には象山を『横浜開港の先覚者』としている。横浜こそを開港場所にと主張した彼の存在無くして今の横浜は語れないカモしれない。