南北朝の歴史を感じる場所。
南朝の忠臣 入谷金兵衛 墓所の特徴
南朝の遺跡がある場所で、歴史を感じる墓所です。
足利尊氏に追われた後醍醐天皇ゆかりの地を訪れました。
忠臣入谷金兵衛一族の墓があり、文化財としての価値があります。
南北朝時代の足利尊氏に追われて吉野に南朝を開いた後醍醐天皇に使えたこの地の忠臣入谷金兵衛一族の墓所である。近くの獄山の中腹にオウバイと言うところがあり、ここより南朝に対してノロシをあげて敵の動向を知らせた。この、墓所近くに字,氷谷(コウジ)谷と言う深い谷が在ってここに氷を貯蔵し,(所謂、氷室でしょうね)夏場に吉野の朝廷に献上したそうです。また大字、東北の隅杉林の中を字、「コウリ」と言い今も氷池や氷室神社の跡が在ると言う。「墓所に在った、由緒による」、最近住所のデジタル化対応に因り、地名の大字、字、なんて表現は辛うじて、郷土史で判るかどうか?現在のどのアタリか判るやろうか?
名前 |
南朝の忠臣 入谷金兵衛 墓所 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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南朝の遺跡らしいので立ち寄りました。この地で南朝の後醍醐天皇をお助けし、南朝の復活を願って忠臣を尽くした入谷金兵衛の墓がありました。遠くの山を眺められる見晴らしの良い場所に正方形の墓地があり、まるで曼陀羅のように墓石が配置してありました。入谷金兵衛が亡くなったときにできたのではなく、後年その一族郎党をまとめてここに埋葬したのだと思います。駐車場はありませんが、路駐は可能です。現地の案内板より入谷金兵衛の墓(にゅうだに)今からおよそ六五〇年前(一三三六年)のその昔、 後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府の政治を嫌い、これを一打ち破りました。この時、天皇を助けた足利尊氏が力を蓄え、ついに天皇に反したため、やむなく、天皇は吉野山に朝廷を移して政治を執りました。一方、足利 尊氏は別の天皇(北朝)をたてたため、激しい争いと なりました。世にいう南北朝の幕開けとなったのです。この時、南朝の忠臣であった入谷金兵衛は、獄山(だけさん)の 中腹に「オウバイ」という所があり、ここから吉野方面 に対して「のろし」を上げ敵の動向を知らせたといい ます。又、「この近くに字、氷谷 (コウジダニ) という深い 谷があります。南北朝の頃に氷を貯蔵して吉野の朝廷 に、夏期、氷を献上したといいます。大字の東北のすみの杉山の中を字、コウリといい、今も氷室池や氷室神社跡があります「見屋こまで すずしかれどや 通ふらん 宇陀のひむろを くくる山風」宇陀旧事記。