熊田恰の切腹の場を訪ねて。
旧柚木家住宅(西爽亭)の特徴
熊田恰(くまだ あたか)が自決した場所として有名です。
現存するサムライ切腹の間で江戸時代を体感できます。
無料入館で歴史ある武家屋敷を楽しめるスポットです。
歴史ある建物、庭園をゆっくりと見学できる他、玉島の歴史についてとても詳しく展示されていました。常駐されている方がとても丁寧に詳しくお話してくださり、大変勉強になりました。入場料は無料で駐車場もあります。
玉島を護った武士-熊田恰が、切腹自害した場所です。歴史にとても詳しい知的な女性が、詳しくお話をして下さいまして、岡山にこんな方がおられたことを初めて知りました。アメリカ文化が、浸透し、個人主義が蔓延する中で自らを顧みず忠義を尽くし、他の者を護った本物の人物がここに居てくれたことは、岡山の誇りだと思います。欄間、釘隠し、殿様のためだけの部屋、切腹の血が飛び散ったあとのシミ。見応えあります。背筋ピンとなる感じの建物でした。また、横には、玉島の話もありますので歴史がお好きな方にもおすすめです。
玉島の大庄屋の柚木家が作った備中松山藩の殿間を備えた家屋。西爽亭がその名です。玉島はかつて同藩の所有飛び地だったらしいです。幕末時代には熊田恰が150人の部下と玉島を戦火から守るためこの自刃したそうです。西爽亭の中には殿様用の浴室や用途別のトイレ(雪隠)、また庭園と茶室も2備わっています。受付の女性の方が親切に色々教えてくれました。隠し釘や欄間など、教わるとなるほど、と思えるものもありました。繋ぎの隣家屋には生涯学習のセンターも新設されており、キレイな空間に玉島の歴史を色々解説があり、フリースペースは地元の方達が楽しく利用されてました。
係の女性の人が部屋の説明や熊田あたかの話しなど興味深い話をたくさんしてくれました。すごく楽しい時間を過ごせました。
こぢんまりしていますが、新島襄にもゆかりのある武家屋敷。幕末に、新政府軍に追われていた備中松山藩士、熊田恰が自決した部屋も残されており、中まで見学が可能です。ここは、部屋もお庭も、非常に綺麗に整備されていました。小さな資料館もあるのに、入館がなんと無料。更にガイドの方もいらっしゃれば、面白く説明してくれます。2・3台ですが、駐車場も無料で隣接していました。近くには、美味しいジェラートの店もあり、ちょっと歴史を感じるドライブには、ちょうど良い所でした。
昼に伺ったのですが誰もいなかって待たされました。重要文化財に指定されているのに開けたままで誰も居ないなんて無用心です。
◎サムライ切腹の間が現存!熊田恰の生き様をとくと見よ。◎見所⚫︎熊田恰切腹の間。⚫︎日本建築の美がここにある。⚫︎縁側から日本庭園を眺める。⚫︎おばちゃんの解説にふむふむ。◎アドバイス⚫︎熊田恰の勉強してから訪問すべし。⚫︎ガイドのおばちゃんの話しは是非拝聴すべし。
江戸時代の貴重な木造建築です江戸時代末期に玉島を政府軍の攻撃から守る為に備中松山藩家老熊田矩芳が切腹した部屋が現存しています羽黒神社の横には熊田矩芳を祀る熊田神社が鎮座しています岡山県高梁市道源寺には熊田矩芳の墓があります。
庭目当てで行きましたが、案内人の方が話してくれた熊田恰(くまだ あたか)の話が印象に残りました。幕末から明治へという大きな動きの中で、地方や個人にもそれぞれのドラマがあったのだなぁと思います。
| 名前 |
旧柚木家住宅(西爽亭) |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
086-522-0151 |
| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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備中松山藩の飛地であった高梁川河口の玉島の湊街で繁盛した商家で、藩主の宿泊先に使われたそうです。さらに熊田恰が切腹した場所ということで、天井には介錯した際に飛び散った血を拭いた跡が残ります。熊田については、以下をご参照ください。(倉敷市HPから)鳥羽・伏見の戦いの際、幕府方の藩主・板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。板倉侯から帰藩の命を受けた恰は、備中玉島港に上陸します。しかしこの時、松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており、松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は、行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し、西爽亭の次の間で自刃しました。この史実は、熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い、その結果、幕末の戦禍から玉島が救われた話として、現在も語り継がれています。