三条通り沿い、秀次の霊を弔う。
瑞泉寺の特徴
三条通りと木屋町通りの交差点近くに位置するお寺です。
幼少期からの悲劇を抱える豊臣秀次の菩提寺です。
賑やかな木屋町通りにひっそりと佇む隠れた名所です。
関白秀次公とご一族をお祀りするお寺さまです。たびをしていると、気になる場所をよく見つけます。こちらさまもまさにそうでした。小さなお寺さまですが、非常に綺麗にされておられ、仏さまもお喜びでしょう。是非とも近くにお寄りの際はお参り下さい。ありがっ様です。
四条木屋町をほんの少し上がり東側に位置するひっそり目立たないこのお寺🧐豊臣秀次の菩提寺と知っている人はかなり少ないのでは?拝観料もなく気軽に足を運べるのでついつい暇つぶしに訪れる。頂点からどん底へ歴史に翻弄された一人の男を教科書から学んだのがつい昨日よう🤔せめて人通りの数だけは秀吉に一矢報いる👍合掌🙏
大河ドラマ『独眼竜政宗』を昔観た時に、秀次と駒姫を含むその一族の悲劇に強い衝撃と秀吉の秀頼可愛さのあまりの強権ぶりに涙せずにはおれませんでした。もっと多くの歴史ファンに訪れて頂きたいですね😢
三条駅から徒歩5分。慈舟山とは高瀬川を往来する舟にちなんで名付けられたそうで、この場所は鴨川の中洲、今はこじんまりとしたお寺となっています。文禄4年(1595)豊臣秀吉の後継者と言われた甥の秀次との仲が嫌悪の関係になる。秀吉の息子が生まれたからである。結局、汚名を着せられ高野山で自刃、8月には首をさらされ一族も処刑された。秀次の墓も有ったが鴨川の氾濫で崩壊。ここで立ち上がったのが門倉了以、素庵親子だ。これは丁寧に葬らないとね、作ったのが瑞泉寺、1611年の事である。という事で、この瑞泉寺には哀れな一族の39霊が祀られている。哀れな物語故に映画でも良く取り上げられる。入口には秀次を演じた歴代俳優の写真、境内には秀次の首を納めた石の首びつ、一族の墓や京人形も安置されている。因みに近江八幡の八幡山の山頂、秀次の菩提寺瑞龍寺がある。ここでは優秀なお殿様、近江八幡の街作りに貢献している✌️
駐車場から、山門を越えて険しい山道を登り本堂へ。本堂では、御本尊の弥勒如来を始めとする多くの仏像が出迎えてくれます。
飲食店が立ち並ぶ木屋町通りと三条通りの交差点近くに立つお寺です。謀反の疑いをかけられて切腹した豊臣秀次公と処刑された一族の菩提を弔うため、角倉了以が建立しました。こじんまりしていますが、繁華街の喧騒を忘れさせてくれます。
関白であった豊臣秀次とその一族の墓があります。今でも詳しい経緯はわかりませんが秀吉によって切腹に追い込まれた秀次とその妻子たちが安らかに眠っております。
豊臣秀次とその一族のためのお寺。秀次と一族の非愛を感じます。
三条大橋から少し入ったところにすぐあります。豊臣秀吉の不興を買い切腹させられた豊臣秀次一族の菩提を弔うために建てられたお寺です。幻の”辻が花”の裂(きれ)が残るお寺としても有名です。辻が花とは、複雑な色柄の染めの技法のことで、メインの絞り染めを引き立たせるため描き絵・摺り箔・刺繍などを併用しながら、複雑な縫い締め搾り・竹皮絞りなど高度な技法を駆使した、桃山時代の華ともいえる絞り染めの最高傑作です。残された資料がほとんどなく、現在では再現が難しい、というか当時のレベルのものはもうできないといわれています。江戸時代に入り、段々と友禅染にとって代わられて消滅しました。こちらのお寺に残るのは、関白秀次の妻妾が生前着ていた小袖の端切れですので、桃山時代でも一流の細工の辻が花染めを所蔵します。特別公開の時などに拝見できます。その他、秀次の正室である一の台(秀吉を関白にするため朝廷工作に奔走した公卿、菊亭晴季の姫)の緋の袴も現存します。秀次と一緒に処刑された妻妾の辞世の句をひとつずつ掛け軸に仕立ててあるのですが、その表装の布部分に遺品の辻が花小袖が使われています。私が拝見した限り、同じ柄(ひとつの小袖)を数人の掛け軸に使ってありました。辞世の句を書かれた方の遺品の小袖がその方御本人の軸にそれぞれ対応しているのではなさそうでした。秀次が過ごした豪華な聚楽第も秀吉に破却されましたので、その際そういった贅沢品もあっさり毀損され棄てられ、数残っていないのだと思います。当時は三条河原には大きな中洲があり、現在のこのお寺の位置にあたります。河原町通までが広く鴨川の領域でした。秀次一族は、女子供39人を含め処刑後、大きく掘られた穴に次々放り込まれ、「畜生塚」という名前を付けられて、その上に秀次の首を石櫃に置き、土を持っただけの粗末な状態のまま、秀吉を憚り弔う人も無く、三条河原に放置されていたそうです。高瀬川の開墾をした京の豪商角倉了以は、元々秀吉の時代からの豪商で、角倉家の家業はもともと医師でした。後陽成天皇の脈を取ったりしたセレブ専門の医師で、豊臣家にも親しく出入りし秀次とも昵懇でした。塚の有様を見て心を痛め、時がたつのを待ち、江戸時代に入ってから、徳川幕府に「豊臣は完全に滅び、もう今更天下を揺るがす恐れも無く、ほとぼりはさめたと思うので、そろそろ気の毒な秀次公の菩提を弔いたい」と自ら申し出、許可を得てこのお寺を建てました。亡き人々の人数分の立派なお墓が秀次公の墓を取り巻くように建てられています。処刑当時の張りつめた空気感が残るような墓所です。人の世のならいとして、みんな権力のあるうちはちやほやへつらってきますが、とっくに儚く滅びた家の、しかも現在の天下人徳川の最大の敵方であった豊臣家、昔の旧主ともいえる一族を波風立たぬタイミングをみて私財で改葬し永代に祀りたい、とはさすが戦国時代を生き抜いた京の豪商、なかなかに大変な男気と度量の持ち主と思います。ちなみに、家康の命からがらの伊賀越えを支援した茶屋四郎次郎など他の京の二豪商は徳川の恩顧を得て発展しますが、角倉家はその前から既に立派な豪商でした。その角倉了以御夫婦の像も安置されています。
名前 |
瑞泉寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
075-221-5741 |
住所 |
〒604-8002 京都府京都市中京区木屋町通三条下る石屋町114 |
HP | |
評価 |
4.2 |
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三条通りと木屋町通りの交わる場所にあるが、見落としやすいお寺である。豊臣秀吉の甥、秀次の菩提を弔うために建立された寺。秀次一族と家臣の墓 として49基の五輪塔が、松下幸之助らの財団法人「豊公会」により建立された。