来迎院の歴史を感じて。
来迎院石造念仏講供養塔の特徴
来迎院石造念仏講供養塔は歴史を感じる場所です。
寺の近くに位置する供養塔群が魅力です。
道を挟んだ位置に独特な歴史があります。
坂の途中にあるお堂です。昔は向かいのお寺の敷地だったそうです。
来迎院と道を挟んで、3つのお堂があります。道路整備によって、このお堂の敷地が飛び地状になってしまったようです。真ん中のお堂に、不動明王像が1基と青面金剛像が2基。向かって左側。上方に日月(逆様)。六臂合掌青面金剛。右上手に戟、左上手に宝剣、両方下手に弓矢。「延宝辛酉歳」(1681年)「三月六日」下方に三猿(聞かざる、見ざる、言わざる)。中央に不動明王。火炎光背。右手に宝剣、左手に羂索。蓮華座に立つ。手前の水鉢に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)が刻まれています。ただし、この水鉢は、不動明王像とは石の材質が異なるので、後年、合体したものかも知れません。右側に六臂青面金剛像。上方に日月。右上手の持物は剣が湾曲したようなものですが不明。左上手はVサインのようですが法輪。両下手に弓矢。右本手に宝剣、左本手は手ぶら?不明です。持物は摩滅しているわけでも、欠落しているわけでもないのですが、全般的にわかりにくい感じです。足下に邪鬼。下方に三猿(言わざる、聞かざる、見ざる)左右側面に、蓮の華と葉。「延宝八庚申年」(1680年)「十一月五日」。いまから6回前の庚申の年ということになります。左側の庚申塔より一年早く建立されています。ちなみに、次の庚申の年は2040年です。
元は来迎院の境内だったが、道路工事で分断されて今の形に至る。という珍しい経緯がある。念仏講の供養塔の他には青面金剛などが安置されている。
来迎院前の道路を渡った箇所に「来迎院石造念仏講供養塔」があります。元来この場所は来迎院の境内でしたが、道路建設がされたため、現在、分離地となっています。説明板がありました。「石造念仏講供養塔は、江戸時代に行われて念仏講の供養塔です。舟形の二基の塔は、明暦二年(1656)と万治二年(1659)の建立、笠塔婆型の塔は寛文七年(1667)で、いずれも江戸時代初期のものです。・・」とあります。碑文はかろうじて判読可能で、この他、「大井村念仏・・」も読み取れました。
来迎院の道を挟んだ向かい側にある供養塔群。3つの祠があり、念仏講供養塔のほか、庚申塔などが祀られています。
歴史を感じます。地元の見所ですね。
本来は、向かいの寺の敷地に在った。道路建設の為に分断された。⊂(・ε・`)ノシ.:∴案内板によると、⊂(・ε・`)ノシ.:∴品川区指定有形文化財来迎院(らいごういん)石造(せきぞう)念仏(ねんぶつ)講(こう)供養塔(くようとう)三基(き)所在大井六丁目十五番二十二号 来迎院前指定昭和五十三年十一月二十二日(有形民俗第四号)江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、右側の堂内に二基、真ん中の堂との間に一基が建てられている。堂内の地蔵(じぞう)菩薩(ぼさつ)像(ぞう)を彫(ほ)った舟型の二基の塔は、明暦(めいれき)二年(十六五六)と万治(まんじ)二年(十六五九)の造立(ぞうりゅう)で、堂外にある六字名号(みょうごう)(南無阿弥陀佛/なむあみだぶつ)を彫った笠塔婆型(かさとうばがた)の塔は、寛文(かんぶん)七年(十六六七)の造立である。いずれも江戸時代の初期に、大井村に念仏講が存在していたことを示す資料として貴重である。この場所は、もともと来迎院の境内(けいだい)であったが、道路建設のために現在のようになっている。平成九年三月三十一日品川区教育委員会。
名前 |
来迎院石造念仏講供養塔 |
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ジャンル |
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住所 |
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来迎院・本堂から道路を挟んで向い側にある祠。古さを感じられる素朴な良さあり。来迎院に参拝したらこちらも訪れるのをおススメ。