小山評定の地、歴史を感じる。
小山評定跡の特徴
歴史を感じる小山評定跡は、関ヶ原の戦いの前哨戦で重要な軍議が行われた地です。
小山市役所の敷地内に位置し、徳川家康と石田三成の伝説が残る印象深いスポットです。
ここにも小山評定の碑が‼︎色んな説があるようですが実際はどこで評定を行なったんでしょうね?
小山市立博物館、小山市立車屋美術館ときて、次は小山市役所と須賀神社です。小山市役所には小山評定跡の石碑があります。また市役所北側は、その小山評定の行われた縁起のよい場所として、徳川将軍家の日光社参の際の宿として「小山御殿」が置かれた場所として、案内板が設置されています。小山評定(おやまひょうじょう)とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指します。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名が家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされています。本当は小山評定はなかった説もあるようですが、小山市立博物館の学芸員さんに質問したら、間違いなくあったとのことでした。須賀神社も徳川家康ゆかりの地です。徳川家康が須賀神社で戦勝祈願をして、見事関ヶ原の戦いで勝利を収め天下を取りました。さらに小山評定は須賀神社境内で開かれたという説もあるそうです。
小山市役所の敷地内にある。大きな史跡ではないがよく手入れされて綺麗になっている。小山市としては大々的に誇りたい歴史上の出来事なのだろう。
最近 NHK の大河ドラマで話題になっている ど〜する家康、の徳川家康が天下分け目の戦いと呼んだ関ヶ原の戦いの前哨戦となる会津上杉氏への進行の途中、引き返す時にこの地小山で大名を集めて軍議を行った際、この字で行ったと言われています。皆さんもご存知の通り、この小山で行われた。軍議は小山標示と通称呼ばれ、ここでの各大名の居住こそが関ヶ原の戦い、東軍西軍の勝ち目を左右したと言われています。そのため、ここの場所には小山表示の後が残っています。具体的には、市役所の南側の駐車場の一角に小山表示の後として石碑が建っています。周囲には何もなくとてもきれいなところですので、写真などを撮った時にインスタ映えすると思います。
小山市役所の敷地内に碑があります。特に何かあるわけではなくほんとうに碑があるだけ。しかしながら歴史好きには良いスポットですね。小山評定で徳川家康側東軍が翻して石田三成率いる西軍との戦いのため関ヶ原に向かったという。そんなことを思い浮かべるとなんだかとても感慨が深い場所でした!
大河ドラマで度々話題になる「小山評定」が開かれた場所。関ヶ原の戦いを語る上で欠かせない歴史の舞台です。こちらは市役所前にあるもので2018年前後の庁舎建て替えで周りの景観が変わっているので注意。更に南に数100m進んだ所にある須賀神社にも同様の碑があります。どうやら正確な位置は明らかになっていないようですが、この辺り一帯が歴史の舞台になった事は間違いないようです。
2023年の時代劇の(どうする家康)を、やっていてこの地は、1600年の関ヶ原の戦いの前にここで北の上杉軍か南の豊臣軍のどちらに行くかここで軍議した場所です。まさにどっちにいくかどうする?となった場所です。この場面もでて欲しい。
工事中で石碑がぽつんとあるのみ。どんなふうになるのでしょうか。市役所の敷地内。
”犬伏の別れ”で有名な佐野市の新町薬師堂を訪れた後、ここを訪れました。車で国道50号線を東に向かうと距離にして約20キロ、30分程で着きました。いずれも会津討伐に向かう途中の史跡なのでとても近いです。場所自体は小山市役所の敷地内にあり、工事中だったので史跡らしい雰囲気はありませんでした。小山評定以前から石田三成と武断派の加藤清正や福島正則との間には大きな溝があり、老獪な家康がそれを上手く利用して流れを作ったんですね。ここからさらに東に向かうと結城城跡や下館城跡がありますので東西に伸びる国道50号線はまるで城跡の銀座通り?です。(笑)
| 名前 |
小山評定跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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関ケ原の戦いを語る上で無くてはならない所です。家康に福島正信が懐柔されてなかったら多く見方がついたか未知数で西軍が勝っていたかも。ここで反転し岐阜に向かったのかと感慨深い。