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名前 |
能仁寺 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
能仁寺(の う に ん じ)の創建は南北朝時代正平6年(1351)、後村上天皇の勅願所として三光国済国師が開基した。三光国済国師は、由良興国寺の開山、法燈国師心地覚心の高弟で、諱は覚明、孤峰と号した。国済国師号は後醍醐天皇から、三光国師号は後村上天皇から賜った。能仁寺は創建当時から寺領四十町を有し、国家安隠宝祚長久、四海平等利益のための祈願所として、地方に重きをなした禅刹であった。能仁寺隆盛時は郡内に名高い名刹であった。『紀伊続風土記』に「廃能仁寺伽藍所」として、山門、仏殿、法堂、多宝塔、観音堂、禅堂、経堂、食堂、鎮守、方丈、庫裏、寮舎、浴室、鐘楼等の諸建造物があり、「廃僧坊」として十八坊を挙げている。南朝方の寺院であった能仁寺は、南朝方の没落とともに衰微し、湯川氏が広庄を所領した時期は復興したが、天正 13 年(1585)豊臣秀吉の紀州征伐により灰燼に帰した。今は名島集落の高台に古いお堂のみがひっそりと佇み、「何にもなしまの能仁寺」という俚言が残っている。