高須城跡の歴史を感じて。
高須城跡の特徴
高須城跡は高須藩松平家の居城で歴史を感じる場所です。
幼児が遊ぶには十分な遊具が揃った小さめの公園です。
高須別院と揖斐川町の偏光寺に残る梵鐘が歴史の証です。
高須城主の高木盛兼は、関ヶ原の戦いで西軍につきましたが、周りの東軍、松ノ木城主や今尾城主から攻撃を受け、降伏を勧められて、城から逃れたそうです。関ヶ原の戦いの翌年に城の修築、三年がかりで城下町が整備され、現在の町並みの基礎が築かれたそうです。説明板があり、堀が残っています。10キロほど北にある福束城主も、同じく西軍について、松ノ木城城主と今尾城主らの進軍を受け落城したそうです。
堀跡が残っています。
関ヶ原合戦の前哨戦の地 どう 感じる!
公園内に案内板があります。石田三成なんですね。遺構は何も残っていません。
高須城跡に行きました。現在は公園になってます。小さいお子さんを遊ばせるにはちょうどいいですね。下記、看板に書かれてる内容です。この地は、付近の土豪の一族だった高木盛兼が、文禄元年(1592)より1万石で所有していた。盛兼は豊臣秀吉に仕え、一説には小田原攻めの功績により高須城主に取り立てられたという。関ヶ原の戦いで西軍についた盛兼は城に籠り戦に備えていたが、慶長5年(1600年)8月19年、東軍の福島正則の命を受けた松ノ木城(海津町松木)の徳永寿昌、今尾城(平田町今尾)の市橋長勝ら東軍勢の攻撃を受けた。「高須城主記」によると、降伏を勧める使者を受け入れた盛兼は、舟で城かはから逃れ去ったという。寿昌、長勝らは、決戦前の8月16日に丸毛兼利の福束城(安八郡輪之内町)も攻略しており、東軍の勝利に貢献した。
小さめの公園になっていました幼児が遊ぶには十分な遊具かと思います!大人はゆっくり歴史に思いをめぐらせる場所です。
小さな公園があるだけでした。
ここの高須城にあった梵鐘が高須別院と揖斐川町の偏光寺に残されています。
往時を偲ぶものは何もありませんが、公園の説明で過去を想像することが出来ます。
名前 |
高須城跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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現在の岐阜県海津市にあった高須城は高須藩松平家の居城でした。三ノ丸に位置する所に城跡公園があり、城趾碑と関ヶ原合戦の説明板があります。公園の少し南に東西に水堀があり朱塗りの主水橋がかかっており、案内板が立っています。城趾から2Kmくらい南に海津市歴史民俗資料館があり高須松平家のことを詳しく知ることができます。また少し足をのばして高須藩松平家の菩提寺である行基寺(岐阜県海津市南濃町)に行くことをお薦めします。回廊式庭園があり、ここからの眺望は素晴らしく濃尾平野が一望できます。