国指定の薬師如来、極楽の宝蔵院。
極楽寺の特徴
讃岐三十三観音霊場の八番札所で有名です。
本尊の薬師如来木立像は重要文化財です。
大きくて美しい寺院の美観が魅力です。
初めての訪問です✨。すがすがしく感じました。良いお寺ですね~
讃岐三十三観音霊場 八番札所 真言宗大覚寺派 聖観音菩薩。
山号院号寺号 紫雲山宝蔵院極楽寺宗派 真言宗大覚寺派本尊 薬師寺如来(国指定重要文化財)真言 おん ころころ せんだり まとうぎ そわか天平元年(729年)行基菩薩が石田に開基したと伝わる。大同四年(809年)火災で焼失する。弘仁十二年(821年)弘法大師が鴨部東山に再興し、元の法相宗を改め真言密教灌頂の道場とした。天長元年(824年)七堂伽藍を整備、東讃岐四郡(寒川、大内、三木、山田)の根本道場となる。また頼願所となり紫雲山宝蔵院の号を賜る。清滝権現を勧請境内鎮守とし、下張神社を境外鎮守とする。天長二年鴨部、志渡、牟礼、古高松、阿州河田、土州鹿食、播州津田で封戸(ふこ)を賜わったが寛平七年(895年)には宇多天皇、昌泰元年(898年)には醍醐天皇より、それぞれ官銭を賜り堂宇を修造しました。延喜三年(903年)談義所(学問所)の号を賜り東讃四郡の僧従に学問をを励ませた。また法印明海の時、寒川、三木、山田の三郡の寺社門主職(寺社の管轄職)を拝し寺社の取り締まりに当たる。延元元年(1336年)火災により焼失、その後、長尾の末寺吉祥院に移り極楽寺と祥し清滝権現を境内鎮守、興国五年尾崎八幡を勧請求し境外鎮守とした。長尾移転後も談義所を号しました。天正十五年生駒親正は兵乱で荒廃した当寺を修治し寺領五石を安堵された寛永に入り宗栄(桂潤)法印が堂塔伽藍を整備。寛永十五年嵯峨大覚寺の直末となる。嵯峨の宮より王智院の永室院号を賜る。高松藩松平家が入部し頼重公が寺社奉行を置き寺社門主職を廃した。これにより地方の一寺院に過ぎなくなった。文政五年(1822年)、文久二年(1862年)に火災があり伝来の宝物、什器の多くをうしなう。明治に入り神仏分離で宮寺三か寺廃寺、寺領は上地(有租地)に成り談義所も廃止。明治十二年なは小学校貸与していた客殿堂より客殿、玄関、庫裏全焼したが直ちに再建。昭和二十七年大覚寺より別格本山の称号を許され現在に至る。何度かの火災にあったがまだまだ当寺には文化財が数多く残っております。本尊薬師如来立像(国指定重要文化財)、薬師如来坐像、木造不動明王立像二体、木造不動明王坐像、十一面観音、多聞天、絹本着色両界曼荼羅図、絹本着色弘法大師像二幅、和漢朗詠集等々・・・蔵しております。
さぬき33観音霊場の中では大きくきれいな部類に入るお寺。駐車場、ろうそく立て、線香立てなどちゃんとしてた。
三十三観音お参りです。
宗派は真言宗大覚寺派、本尊は薬師如来木立像で国の重要文化財である。由来は天平元年(729年)行基菩薩が石田に開基したが、大同4年(809年)火災で消失、弘仁12年(821年)弘法大師が鴨部東山に再興し、元の法相宗を改めて、真言宗秘密灌頂の道場とした。天長元年(824年)七堂完成で同年ちよく願所となり紫雲山宝蔵院の号を賜わつた。同年清竜権現を勧請して、境内鎮守とした。当時には国の重要文化財指定の本尊の薬師如意来像や旧小倉寺本尊であった香川県指定の重要文化財の薬師如意来像の他に、数多くの優れた仏画や仏像がある。
| 名前 |
極楽寺 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0879-52-2017 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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