生まれ変わった新しい遍照院。
慈氏山 松浦寺 遍照院の特徴
坂出市高屋に位置する、松浦寺遍照院の美しい本堂です。
誠実な住職が仏道に邁進する真言宗御室派の寺院です。
古い仏像と共に、新たな魅力を持つ遍照院の厄除け寺です。
白峯寺西麓の慈氏山松浦寺遍照院は「遍照」という寺名からしても弘法大師信仰に深く関わることはお寺です。本尊は阿弥陀如来、脇侍は弘法大師と弥勒菩薩です。庭に弘法大師が求聞持法を修したという求聞持石があります。やや離れた後夜谷という窟は、大師修行の地と伝えられ、その途中に弥陀橋がかかります。これは遍照院から大師が毎日修行のため、窟へ通う時にこの橋まで阿弥陀如来が来迎したと伝えられます。近くには高野四社明神が建立されていて、高野山との深い関係がうかがえます。「弘法大師と阿弥陀如来」が併せて祀られるというのは真言念仏の特徴で、高野聖の存在が浮かんできます。白峰寺周辺も聖たちや修験者の活動拠点だったようです。この寺の建立は「求聞持石銘」に刻まれている年号からする 元禄年間(1688~1704)以前にまで遡れるようです。
住職がとても誠実な方で仏道に邁進されておられる方です。高野山で修行されたと仏教関係者のある方から伺いました。説法も素晴らしく、読経も尊い感じがします。葬儀関係者からの紹介で、父の葬儀でお世話になりました。よいご縁をいただいたと感謝しております。
坂出市高屋に有る遍照院です。本堂の補修工事も終わり美しく成っております。閻魔堂等々のお堂や巨石の上にお大師様の石仏が安置されていたり小さい寺院ですが見応えが有ります。
松浦寺遍照院。四国八十八ヶ所白峯寺の前札所です。弘法大師が当地に逗留されたとき、宝珠の形をした巨石が地中から現れたため、閼伽井を掘って加持水を得て、この石の上で求聞持法を行ったと伝えられています。御自身の像を作って納められたので、特に女性の厄除大師として尊ばれました。境内まで車で上がることができ、駐車スペースも余裕があります。令和二年現在、納経所はないのですが、本堂右横の庫裏(僧の住居)のインターホンでお呼びすると、御朱印を頂けます。
古い仏像もあり、お寺も新しくなってきれいです。
無縁仏となったお墓が多数放置され、荒れた状態になっています。
●t真言宗 御室派 慈氏山 松浦寺遍照院『女人高野』の厄除け寺「松浦寺遍照院」としてよく知られているようですが、本堂は最近改修されとても美しくなっています。大師堂と本堂の間に昭和47年(1972年)の阿弥陀堂改修記念碑が建立されており、その記念碑に刻まれた寺の由来を以下に転記しました。そもそも阿弥陀如来は人皇第五十二代嵯峨天皇の御代にこの地へ弘法大師がお越しなされ紀州の高野山を男の往生の道場とされ四国の当地を女人往生の道場とされました 大師御年四十二歳の時であります 境内中央に丸い大石の上に大師自らお厄を祓われました時は千百六十年昔であります その後人皇第五十三代淳和天皇の御代に大師ご自身のご真影を自作されかの阿弥陀如来を大師自からお祀りされました時は西暦八二五年のことです その時に当阿弥陀如来は四面八方に大光明を放されてこの寺を遍照院と命名されたそうです 面積七万九千平方米の広大な境内を有し時の将軍頼朝公より沢山の寺禄を戴いておりました その後七百年を経て世は戦国時代となり天下は南北に別れ南朝の細川清氏がこの寺の境内に陣取りして居りました時に今の岡山より北朝方の細川頼之と戦となり敗戦を見透して陣営内を自ら焼き払って三十六将士が討死にされました 今だに残る林田町の「三十六さん」がその跡であります その長い年月を当阿弥陀如来は細川候の守り本尊として大切に保存されて参りました その後大師ご自作の大師像とかの阿弥陀如来は二回の大火の難を逃れて残りましたがその後五百余年間今日に至る種々信者の願いを叶え霊験頗るあらたかなり 尊ぶべし信ずべし御堂改築を記念して永く來世に尊き由来を伝うるものなり 合掌。
生まれ変わった姿が楽しみですね。
| 名前 |
慈氏山 松浦寺 遍照院 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0877-47-0217 |
| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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お墓参りに行きました…。