栃木城址公園で歴史を感じる。
栃木城址公園の特徴
栃木城址公園は、鯉が泳ぐ堀が魅力的です。
昔の名族・皆川氏に由来する歴史的な場所です。
雑草が生い茂り、静かな雰囲気が漂う公園です。
緑が多く自然の面では良いですが、あまり広くはなく、遊具も少ないです。自然を感じたい方にはお勧めです。
城の一部。案内板で想像するしかない小さい公園でした。
掘りに鯉が泳いでいます。
栃木城は、天正19年(1591年)に始まった。城内のもと神明宮があった近くに、東宮神社が祀られている。これは、皆川広照が皆川の東宮神社を分祠したものであり、栃木城の鬼門に祀ったものと思われる。南は円通寺、西は杢冷川を隔てて栃木町に接している。そのあらましを述べれば一、城の西入口より栃木町の通りまで五丁四〇間(約622m)一、城の周り五一〇間(約923m)一、本丸東西八三間(約150m)南北七三間(約132m)一、二の丸東丸(本丸の東側)東西一一間(約20m)南北三六間(約65m)南丸(本丸の南側)東西二八間(約50m)南北七三間(約132m)一、蔵屋敷東西七〇間(約27m)南北四六間(約83m)一、三の丸東丸の東側東西二八間(約50m)南北七三間(約132m)東丸の南側東西五二間(約94m)南北二〇間(約36m)一、表門は三の丸、裏門は東丸から入った一、濠の幅は九間乃至一〇間(約16mから18m)現存の遺構は、東丸の北部の土塁と濠の一部である。西と北の守りがなかったのは、西側は栃木町や巴波川、北側は(川島というような地名がおこったことからも察せられるように)深田や泉が自然の要害をなしたからであろう。しかし、この城も慶長14年(1609年)には壊される運命に追い込まれてしまった。徳川家康は一国一城令によって、総数3,000以上あった城を170ほどにしてしまったという。栃木城の取り潰しもその一つであった。栃木城にいた侍たちは、新たに主取り(どこかの大名のもとに就職)をするか荒地でも開墾して百姓となるか、あるいは商人になるしか手立てがなかった。皆川広照の家来で栃木城にいた猿山安政と信安の兄弟は新田を開墾して農民となったが、新田を拓くにあたってまず問題となるのが水利権である。彼らはとりあえず城内から樋で水を引いた。それで樋ノ口村という地名がおこったという。
栃木市は藏の町。でも城下町時代もありました。
普通の公園お城の遺構もほとんど無い。
行ってないです。目の前通っただけです。
室町時代に長沼紀伊守秀光が築城。その後皆川城の支城として機能する。永禄~天正年間にかけては皆川城主皆川俊宗・広照によって現在の蔵の町の基礎となる栃木のまちづくり政策の中心となる。1590年、小田原征伐で皆川広照が秀吉から本領安堵されると本拠を栃木城に移した。1609年、松平忠輝の家老となっていた広照が家康によって改易されると、栃木城も廃城となった。
昔お城があった、公園です!
名前 |
栃木城址公園 |
---|---|
ジャンル |
|
電話番号 |
0282-21-2413 |
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.1 |
周辺のオススメ

通り道に突然見つけた栃木城址公園。歴史を感じるエリアでした。