吉見藩の歴史を感じる。
明治3年、遠藤胤城(たねき)が、近江国野洲郡(現:滋賀県野洲市)の三上藩より領地だった和泉国吉見に『吉見藩』を立藩し、藩知事となる。遠藤胤城が『大坂城玉造口(副城代格)の生まれ』だったから、三上より、生まれた大坂に近い吉見に移したのか如何かは知らんけど。わずか1年余りの明治4年の廃藩置県により、藩知事を免官となりました。遠藤胤城の父・遠藤胤統(たねのり)は、大垣藩主・戸田氏教(とだうじのり)の三男で、三上藩主・遠藤胤富(たねとみ)の養子となる。戸田氏教も、館林藩主・松平武元(たけちか)の五男で養子に。松平武元も、常陸国府中藩主・松平頼明の次男で養子に。松平頼明は、水戸藩・徳川頼房の八男・松平頼福の長男。御三家水戸藩祖の徳川頼房は、徳川家康の十一男。兎も角、遠藤胤城は、家康の血筋という事ですわ。
名前 |
吉見陣屋跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
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明治期の泉州タマネギ生産功労者の頌徳碑はありましたが、吉見陣屋跡についての解説は無かったです。タマネギのほうは、泉州タマネギ生産の功労者である3氏(今井佐治平 氏・大門久三郎氏・道浦吉平氏)の功績を称える頌徳碑が建っています。以下、碑文を貼っておきます。「古来より住民は農耕と漁猟を兼ねて生活を営んできましたが、しばしば、不作・不漁となり貧しい生活を送っていました。これを見かねた田尻村の三氏はサトウキビ栽培を人々に奨励します。成功するものの後に海外から安い精糖が輸入されたため立ち行かなくなります。再び三氏は土 地に適する作物を探し、タマネギに着目します。試行錯誤の末、タマネギ栽培に成功し、再びこれを奨励しました。やがて吉見球葱の名は各地で知られるようになりましたが、まだ食べる人が少なく、自ら 市場の開拓、需要拡大に努めました。タマネギ生産も順調に進み、輸出するまでになり国内外に知られ るようになりました。このころ吉見ノ里では、耕地 80町歩 (0.79km) 生産量30万貫 (1