甲斐源氏の足跡を訪ねて。
若神子城跡の特徴
若神子城跡は甲斐源氏発祥の地の一つに位置し、歴史的価値が高い場所です。
躑躅ヶ崎館や新府城とともに山梨県の甲斐武田の歴史を感じられるスポットです。
今は大きな公園となってます。晴れてたので富士山が見えました。ちなみにこの城の南には若神子南城址がありお寺となってました。北には若神子北城がGoogleマップに記載されてたので行ってみましたが、入口がわからず辿り着けませんでした。
公園になっているので面影はありません。狼煙台も撤去されてました。城を建てるに相応しい場所だなぁと思いますしあまり知られていない武田の歴史を知ることができました。もうちょっとお金かけて整備して欲しいです。
ひろい、ふるさと公園になっていますが、元は若神子古城の跡地です。静かで桜の名所でもあります。歴史のある古城ですが、今では静かに街を見下ろせます。公園入り口まで分かりずらい道ですが、国道から脇道を上るように行けば大丈夫です。
谷戸城跡と同じく、甲斐源氏[武田氏]発祥の地の二番目の地域にある若神子城跡へ来た。一応公園として整備されているようで駐車場やトイレはある。この山城も谷戸城と同様に清光の甲斐支配の枢要な居城であった。言い伝えでは新羅三郎義光が最初に城(館)を築いたとのことであり、現地の古い看板には「甲斐源氏(武田氏)発祥の地といわれる」と書かれているが、これはちょっと、どうかな?と思った。ちょっと長くなるが、思うに、義光は後三年の役で兄義家を助けるため官を辞して陸奥へ向かい、金沢柵で清原武衡・家衡に勝利し、帰京後甲斐守等の任官もあったが、常陸の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、常陸に勢力を拡大していった。更に嫡男義業には吉田一族の平清幹の娘を娶らせ、義業の子孫が佐竹氏として常陸に土着していった。義光は一方、清幹から常陸国那賀郡武田郷を譲り受けると、これを三男義清に与え、義清は「武田冠者」と名乗った。そしてその後、義清に嫡男清光が生まれると、成長した清光は平清幹の嫡男で常陸の在庁官人の平(大掾)盛幹と領土争いを起こし敗れて、義清・清光父子は甲斐国市河荘へ配流となったのである。これが甲斐源氏[武田氏]の発祥の経緯であり、市河荘にある義清館跡(二ヵ所伝承地がある)がその発祥の地であると考えるのが妥当であると思われる。若神子城はその後義清・清光が甲斐支配のために逸見荘へ移ってからの地であり、故に、若神子城は発祥の次の地であると考えるのが適当と思われる。若神子城の郭の縄張りは現状からはあまりよく分からないが、谷戸城と違って急崖な台地先端部にある山城であり要害といえる。現地の案内図によると台地の先端側に大手の虎口があり、駐車場側が搦め手のようである。天正十年(1582)の天正壬午の乱では、信州側から侵攻した北条氏直がこの若神子城を改修し本陣を置き、新府城に本陣を構えた徳川家康と対峙した。城跡にはこの時北条氏が構築途中で放置した薬研堀の跡が残っている。
若神子城は3つの台地の先端にあって、それぞれ深い谷をはさんでいます。北から北城・古城・南城とあるうちの真ん中にある古城跡が公園になってます。復元された狼煙台はもう撤去されたらしくなくなっていました。公園から下に降りる道がお城を想像しやすい雰囲気を残しておりました。
小さめです~
ふるさと公園内にあります。見晴らしの良い山の上に位置していますが、昔から山頂部は平らだったのか。もう少し、城跡の遺構が残っているといいなと。
武田氏発祥の地と伝わる城跡。武田氏により狼煙の中継地として利用されたとある。武田氏滅亡後に起きた天正壬午の乱では信州より北条氏が侵攻し、新府城の徳川氏に対する陣地として改修したとされる。城跡は公園になっており、遺構は堀跡や再現された狼煙台があるのみ。
甲斐源氏(新羅三郎義光)発祥の地行ってみると、好立地に気付きます。
名前 |
若神子城跡 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.4 |
周辺のオススメ

せっかく歴史のあるいい場所なので、躑躅ヶ崎館と、新府城と若神子城で山梨を甲斐武田を盛り上げてほしいですね。名前も若神子公園ではなく違う名前でした。若神子城も新府城も東西を2本の川が挟み、結構な高台になっていて、立地としては良い城の位置と思いました。駐車場の開門は8:00か8:30のどちらかだったと思う。