水戸城三の丸 水戸藩校弘道館の特徴
水戸藩校弘道館は、全国最大規模の藩校として知られています。
徳川斉昭公が設立し、歴史的な展示物が多数あります。
周囲の水戸城界隈も整備され、散策するのに最適なスポットです。
水戸藩校“弘道館”今日は仕事で水戸に来ています。なんと弘道館はオフィスのすぐとなりにあります。ということで、ちょっと立ち寄りました。お昼休みの有効活用ですが、正直今日のお昼時間は3時間です!偕楽園は少し距離があるので、昼餉を抜いて4時間コースにして次回見学しようと思います。(2015年5月1日訪問)
初訪問。チケットを購入していたら藪蚊?に刺されました(笑)痒かったです。立派な門構えをくぐり抜け靴をビニール袋に入れて順路に沿って見学。とってもゆったりした雰囲気で外は暑くても中はひんやりで落ち着いたお屋敷という感じでした。昔のお風呂やトイレの跡?もありお宅訪問的な楽しさがあり大人はのんびり楽しく見学できるところです。興味があまりなければ40分位でさくっと見学し興味がある方には60分は必要なところだと思います。出口左横の資料館みたいなところのみ撮影禁止箇所がありました。お手入れが行き届いていて日本家屋ってよいなと思わせられるところでした。
江戸時代末期に水戸藩主徳川斉昭によって水戸城の三の丸に作られました。非常に広大な敷地で藩校としては最大です。正門や正庁は重要文化財で、非常に立派です。正庁は広く様々な展示があります。庭園も広く素晴らしいです。売店で御城印をいただけます。
水戸斉昭公、徳川慶喜公、ゆかりの施設である弘道館に行くことができました。暑い最中ではありましたが、建物の中は冷んやりとした空気感がありました。やはり昔ながらの建築は良いですね。庭に面した廊下を歩いて、風景を眺めているだけでも(日本人で良かったな…)などという思いが、頭をよぎります。歴史的価値があるのは言うまでもありませんが、なによりリラックスした気持ちになれるのが大きいと思います。水戸に訪れた際は、観光の候補に弘道館は如何でしょうか?
土曜日に伺いました。混雑はなく、入場料400円を払い中へ。きちんと手入れされた館内は当時の生活感がわかるほど。なかなか自分の足で歩ける歴史遺産は数少なく、畳の間から覗く中庭は、そこだけ時間が止まっているような感覚になりました。近くに来たらよってみる価値がある、素敵な歴史がありました。また伺います。
☆想像以上に広い「弘道館」全国各地にある藩校の中で日本最大規模❗️水戸城の三の丸が殆ど弘道館の敷地、江戸時代は今の3倍の広さとは驚いた😲中心は政庁と至善堂、敷地内に武術修練する武館・学問学ぶ文館、馬場に調練場、医学館に天文台、更に学生寮も完備、これは総合大学だ‼️江戸時代後期、天保12年(1841)に創設させた水戸藩第9代藩主「徳川斉昭」の発想が凄いと感嘆🤔1868年弘道館戦争で焼失せず、1945年水戸空襲で延焼せず、往時の姿を残した政庁・至善堂・正門が現存して良かった、そして国指定特別史跡(国重要文化財)✨政庁玄関前の左近の桜は徳川斉昭夫人ゆかり・黒松は徳川斉昭お手植えの松(三代目)、正面裏手にも学生警鐘や孔子廟もあり見処沢山です👀【弘道館 正門】…重要文化財正門の入口側の柱を良く見ると「弾痕」が数ヶ所あり、明治元年(1868)に勃発した藩内争乱、保守派(諸生党)vs改革派(天狗党)『弘道館戦争』の証⚔️
無料駐車場が目の前に有り便利です。館内の展示物はどれも見入ってしまうほどの書や作りです。よく見ると三葉葵の畳み表でした。梅の時期にも訪問してみたい。
入館料400円。茨城子育て支援カード提示で200円。1841年7月に完成し8月1日に仮開館(本開館は1857年5月31日)。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた(弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷地であった)。初代教授頭取には、会沢正志斎と青山拙斎が就いた。建造は戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の精神が漢文で書かれている。武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。 学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育政策がうかがえるといわれている。通常、卒業の概念が設けられているものが多いが、学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。 また、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた。 明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。慶応4年(1868年)4月、謹慎中の徳川慶喜は江戸開城の合意事項に沿って水戸に引き移り、弘道館の至善堂に入った。しかし当時の水戸藩では藩主慶篤が病没して藩主不在の混乱状態であり、慶喜が紛争に担ぎ上げられることが予測されたため、7月に慶喜は静岡に移った。改元して明治元年10月1・2日(1868年11月14・15日)には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。 弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年(1945年)8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで管理を行っている。 また、徳川斉昭の意向により設立当初から多くの梅樹が植えられ、その由来が『種梅記』の碑に記されている。斉昭の漢詩『弘道館に梅花を賞す』には「千本の梅がある」とある。現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられており、梅の名所となっている。 なお、弘道館と同じく梅の名所である偕楽園は、弘道館に対し、心身保養の場として対に作られたものである。
梅祭りの偕楽園に行くためにコンビニチケットを購入しましたら、弘道館がセット割引でした。もし、このセット割引が無ければ偕楽園だけの観光になっていたかもしれませんが、本当に行って良かったです。風格ある建物、『尊攘』の掛け軸、大日本史、梅の庭園、さらに空堀を渡り、水戸城跡、、復元された大手門などに元の城の威容を想像し、堪能しました。
| 名前 |
水戸城三の丸 水戸藩校弘道館 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
029-231-4725 |
| 営業時間 |
[月火水木金土日] 9:00~17:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
|
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水戸というと光圀公のほうが有名なのかな、と思っていたけれど史跡として残されているものや城界隈をみてみると、斉昭公のものの方が多いと感じた。偕楽園もこの弘道館も斉昭公によるもの。水戸城の三の丸辺りがいまも県庁や学校になっていて、そのため水戸駅からはそれなりの上り坂の果てにある。かつての城郭に思いを馳せながらいまも行政や教育施設として使われていることに思いを馳せることができる。地方都市はかつての城割でいまもその用途て使われていることが多くて、こういう地で過ごすのは羨ましくもある。