源為朝の伝説、運天港の碑。
源為朝上陸記念碑の特徴
源為朝上陸記念碑は、東郷平八郎の揮毫が重要な価値を持つ場所です。
記念碑は保元の乱後、源為朝が上陸した証を伝える歴史的なスポット。
運天港を見下ろす高台に位置し、細い路地がアクセスの難しさを引き立てます。
大正11年建立と刻まれていたが 今は誰の手にも お世話になっていない様子。も少し 手入れされればと思います。
この辺りの地名は運天といいます。源為朝が、伊豆大島から逃れてきたときに、暴風雨に遭い「運を天に任せる」と、辿り着いた地が地名の由来でもあるとも言われているそうです。源為朝はこの地で大里按司の妹をめとり一子をもうけました。この子が、尊敦(後の琉球王国の祖、舜天王)で。その後、妻子を連れて帰ろうとしたが、波風に妨げられて、妻子を牧港に残しひとり帰国したそうです。妻子は為朝の帰りを待ちわびたので「まちみなと」=牧港といわれるようになったそうです。子供の尊敦はやがて浦添按司になりやがて王位に就き、舜天王となり琉球王国を治めたということです。カーナビでは検索しても出ないので、googlemapで調べて大体の地点をセットして出かけました。近くに2台くらい駐車できるスペースがありました。
運を天にまかせるから運天なーんてのがありますがまぁ、創作伝説。元は(少なく見積もっても15.16世紀までは)運天はコモケナ、雲慶那、雲見、運見と呼ばれていたため、源為朝が生きたのが12世紀頃という点で整合性が取れませんし、為朝上陸は考古学的に否定されています。おおかた薩摩による日琉同祖論の産物でしょう。それで、この碑は「琉球人」と差別があった明治大正に必死に日本人になろう(皇民化しよう)とした沖縄県民や、それに応えた東郷平八郎、あの時代の人々の思いなわけです。戦前の皇民化を知るとても素晴らしい資料なのでその意味でこの碑は評価できるものです。
源為朝上陸碑。運を天にまかせて、ここに上陸したから運天と名付けられたという説です。そして、為朝は、妻子を残して浦添の港から帰郷しています。
源為朝、伊豆から逃れてこの地へ上陸し、その子孫が琉球王国の始祖舜天王という正史にもある伝説。大正時代に東郷平八郎により上陸碑が建立されてます。文字も直筆。
保元の乱で敗れた源為朝(ためとも)が、運を天に任せて辿り着いた地、運天(うんてん)港を見下ろす高台に、東郷平八郎揮毫の源為朝上陸の碑があります。琉球王朝を開いた舜天(しゅんてん)は、源為朝の子という伝説があります。今帰仁(なきじん)という地名も、今は帰りし仁(ひと)と読め、為朝のことを指している気がします。また、浦添の牧港はマチナトと読みますが、マチナトは待ち港(まちみなと)の意味で、源平争乱(治承・寿永の乱)の火蓋が切って落とされたことを知った為朝が、居ても立っても居られなくなり、浦添の地から都に向けて旅立ち、妻子が帰りを一生待ち続けたことからそう呼ばれだという伝説もあります。
為朝上陸はあくまで伝説 すぐ近くに王朝時代の古墓(風葬墓)があります。
がじゃん(蚊,mosquito)がたくさんいます。肌を露出して5分でも静止していたら酷いことになります。滅多に見かけませんが、人前に出てこないだけでハブもたくさんいるでしょう。蚊と蛇の対策をしっかりしていれば、晴れた日は素晴らしい眺めを得られます。
とても細い路地を行くので車の運転に自信のない人は行かない方がいいかもしれません。
名前 |
源為朝上陸記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.8 |
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記念碑は、在ります、価値が有るのは、東郷平八郎の文字が刻まれてる事くらいかな、廃藩置県後、琉球の民を、為朝の子孫だと思わせる為の大嘘で(笑)、因みに私の家系図も、その嘘の情報で、先祖由来の名前を変えて、為朝の朝を名前につけてます、時代は正にこの記念碑の時期です(笑)考えてもわかる事、文献に残ってないし、時の英雄東郷平八郎が、態々自ら石碑建てる事は?政治的な思想がある、つまり嘘石碑です。妄想で見るなら良いかも知れませんが史実でないでしょう(ーー;)