医光寺洪水浪漫、雪舟の庭園。
医光寺総門(七尾城 移築大手門)の特徴
医光寺総門は県指定有形文化財として認識されています。
雪舟庭園を訪れると美しい景観に感動します。
七尾城移築大手門の独特な建築様式が魅力です。
雪舟庭園の見学に訪れた医光寺でとても強く印象に残った建築物です。高さ4mの威風堂々たる佇まい、長年の風雪に耐え荒々しく変化した風合いの柱など、ひと目見てその野趣溢れる雰囲気に圧倒されました。寺の門というより砦の門みたいですね、柱の陰から無精髭を生やし足軽姿の若い頃の三船敏郎が出てきそうです。それもそのはず、実はこの門は益田氏の戦国時代の居城の大手門を移築したもので、時代は安土桃山時代の終わり頃とのこと。戦国の世が終わり平和になったので役目を終えた門を寺に再利用したんですね。この門は二本の柱を控柱がうしろで補助する「棟門(高麗門)」の形式で、角柱の両側はかっては城壁に接していました。しかし棟門にしては珍しい屋根だなぁ〜と少々訝しげな気持ちで見上げていたのですが、この屋根は一つの切妻屋根だったものを後世に改築して3つに分けたのだそうです。ちょっと唐風?城門のイメージを払拭してお洒落にしたかったのかも?と言いますか、東福寺派のお寺なので屋根だけでも3つに別けて三門っぽくしたかったのでは?と推察しました。以上は私の主観的な印象・感想で以下は客観的な事実です。総門の大きさは高さ4メートル、幅4・5メートル。益田市教育委員会によると、もともとは、中世から戦国期に益田を治めた益田氏の居城・七尾城の大手門だったという。慶長五(1600)年の関ケ原の戦いの後に、益田氏第二十代元祥(もとよし)が長門国須佐へ移住し、廃城となったのに伴い移築されたといい、構造、意匠とも簡素ながら本柱は太く、戦国末期の豪壮な城門の姿を今に伝えている。高麗門形式で、屋根は切り妻造り、本瓦ぶき。中央を高くし、両側を一段低くした構造となっている。17世紀後半、九州岡藩(大分県竹田市)の御用大工の棟梁(とうりょう)「竹田番匠」が屋根を竜宮造りに改造したという。医光寺二十九代住職の家根原(やねはら)宗丈さんは、独特の屋根について「傷んでいた門を直す過程で、職人が自身の持てる技術、技量を発揮したのだろう」と推察する。総門の前を通る県道中島染羽線の整備に伴い、平成四(1992)年度に本堂から中門の延長線上に若干位置を移動し、解体修理が行われた。蛇足だが、益田に古くから伝えられるフレーズに、「ええもんやろう、医光寺の門やろう」というものがある。「ええもん」は、石見弁で「良い物」と「良い門」の二つの意味に取ることができ、子どもなどを相手に使われるらしい。昭和三十四(1959)年、県有形文化財に指定。(令和二年11月18日)
益田のお城、城主に招かれて雪舟が庭園を作る。
名前 |
医光寺総門(七尾城 移築大手門) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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「益田市:医光寺総門(七尾城移築大手門)」医光寺総門は県指定有形文化財です。医光寺は前身を臨済宗東福寺派、滝蔵山崇観寺(たきぐらさんすうかんじ)と称し、本尊は薬師如来、創建は正平18年(1363)七代益田兼弘の代です。以後、益田家の菩提寺として崇敬厚く、一時隆盛を誇りましたが、しだいにすたれました。17代益田宗兼の時、崇観寺の南の高台に新たに医光寺を建立し、両寺は統合され、崇観医光寺と呼ばれるようになりました。総門は、元、七尾城の大手門だったものを、関ケ原の戦の後、ここに移転し承応年間(1652~1655)以後、竹田の番匠により、屋根を宗寺院の山門にみられる竜宮造になおしたものです。2本の太い柱に2段の屋根をかけ、大扉をつけた勇壮豪快な手法の門です。また、文明年間(1469~1487)画聖雪舟が、第5世住職として万福寺から移り、名園を築きました(国史跡および名勝指定)。現在の庭は享保14年(1729)の大火後再建されたもので、池泉観賞半回遊式庭園といわれ、春秋に訪れるものの目を楽しませてくれます。山崖をそのまま活かし、池中には島をおき、いわゆる、蓮莱型山水庭園の特色をよくあらわしています。書院の前から仏殿の背後まで、広い地域をうまく処理し、雪舟庭園の中でも最高といえます。万福寺の庭園が寺院様式を基調としているのに対し、医光寺庭園は武家様式をとり入れており、雪舟の多才ぶりが感じられます。そのほか、建築では、中門、鐘楼、玄関があり、彫刻では、日光、月光両菩薩像、十六羅漢像、香盒(こうごう)など、興味をひく所蔵品が保存されています。(しまね観光ナビより抜粋)