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| 名前 |
寿福寺 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
053-447-0115 |
| 評価 |
2.9 |
| 住所 |
|
【本多忠勝のいとこが開いた寺院】倉松山 寿福寺(そうしょうざん じゅふくじ)は、440年ほど前の戦国時代に開創された浄土真宗 高田派の寺院で、ご本尊として阿弥陀如来を祀ります。本堂は1937年(昭和12年)、山門は1790年 (江戸時代の寛政2年)、鐘楼は1868年(明治元年・慶応4年)に建立されたものです。梵鐘は戦時中に供出されたため、1959年(昭和34年)に鋳造されました。戦国時代の1573年、三方ヶ原の合戦から徳川家康と共に敗走していた本多忠真(ただざね)は、20歳の息子菊丸に「城に逃げて殿を護れ」と言い残すと追走する武田軍に刀一本で斬り込み、39歳の若さで討ち死にしました。父や将兵の壮絶な最期を目の当たりにして、戦の空しさと世の無常を感じた菊丸は、父忠真を三河に葬ると三重県の本山専修寺(せんじゅじ)にて「誓授」の法名を得て仏門に入りました。9年後の1582年、誓授は親鸞の足跡を訪ねて栃木県真岡市高田の本寺専修寺に向かう途中、ここ倉松の地にさしかかると足を痛めて動けなくなりました。誓授は当地を開発していた夫妻の世話を受けて暫く療養しながら「弥陀の本願」の教えを説きました。その教えに感銘を受けて帰依した夫妻は、大津波により失われていた「慈眼山 樹福院」の再興を熱望し、誓授は自らが開基となりそれを実現しました。その後「樹福院」は、江戸時代の1698年(元禄11年)になり「寿福寺」にと改称しました。菊丸誓授の父である本多忠真は、一言坂の戦い(磐田市)での活躍により武田軍から「家康にはもったいない」と評された徳川四天王のひとり、本多忠勝(ただかつ)の叔父に当たります。従って寿福寺は本多忠勝のいとこが開いた寺院ということになります。それ以来、本多家が連綿と法灯を守り続けてきました。ちなみに浄土真宗系の寺院は全国で28%以上を占める最多数派なのですが、禅宗系が81%を占める浜松市では僅か8ヶ寺(1.7%)に過ぎません。さらに高田派は寿福寺と光福寺の2ヶ寺のみで、他は大谷派が5ヶ寺、本願寺派が1ヶ寺となっています。