鎌倉街道沿いの地蔵堂。
伝鎌倉みち沿いの地蔵堂の特徴
鎌倉街道沿いに位置する地蔵堂で、歴史を感じます。
大切にされている地蔵堂にはベンチがあり、休憩に最適です。
地元の人々に親しまれる名所として、多くの参拝者が訪れます。
ベンチもあって、大切にされている地蔵堂です。不動明王も祀られています。
| 名前 |
伝鎌倉みち沿いの地蔵堂 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[月火水木金土日] 24時間営業 |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
〒330-0856 埼玉県さいたま市大宮区三橋3丁目186−2 |
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当地は鎌倉街道沿いと伝わるらしいが、何を根拠にしているのかは不明。現地にそれらしい遺物も見当たらない。仮に事実だとするのならば、ここから本町通りを経由し、羽根倉方面に抜けたのだろうとは思う。また、タイトルに「地蔵堂」とあるが、地蔵よりかは不動明王や阿弥陀如来がメインな気がしないでもない。供えられた水が新しい。また、線香の匂いがする。なので、誰がちゃんと管理している様である。以下、観察情報を記す。1【不動明王像】境内左端に堂宇あり。その中に不動明王像が安置されている。光背は真っ赤に塗られ、炎を模している。その炎の中に、月と太陽が浮かぶ。台座には脇侍と思われる二体の童子が彫られている。その側面には「武州足立郡中仙道 戸田川岸 石工 富士五郎」とあった。この石工は個人的に初めて見る名前である。台座下の基礎石部分は二段構造になっていた。上の基礎石の正面には、「成田山」と刻まれているので、この不動明王が成田山系であることが分かる。その基礎の右側面には「天下泰平 国土安穏」という草書体が、左側面には「慶応二丙寅年 吉祥日造立之」云々と造立年月日などを彫り込んでいる。これにて、戸田川岸の石工 富士五郎の幕末の作品ということが了解される。下基礎石正面には「邑内安全」と刻み、その側面に「講中」と刻んでいた。また、不動明王像の右隣に小さな不動明王像があった。2【阿弥陀如来 座像】1に向かって、右手側の堂宇の中にある。健之年月日不明。金色。かなり状態が良い。その隣に「ア(梵字)喜楽山 東光寺」と刻む位碑の様なものがある。 かつてここにあったお寺の名前だろう。廃寺になったか。3【六地蔵】足立郡牛飼村の「善男女講」という講集団が奉納。享和二年銘。中心の地蔵の台座に刻まれた文字から、造立趣旨は、念仏百万遍詠唱記念、および、そして、死者供養であることが窺われる。一番左手の地蔵の台座には、複数の水子および妙境禅士・顕教禅士の名前が刻まれている。これらの人物が供養対象なのだろう。地蔵は風化のためか、顔面がなくなってしまっている地蔵もある。4【念仏供養塔】3の左隣にある。嘉永元年銘。正面に「南無阿弥陀佛」とある。また、台座正面に「念佛講中」と刻んでいた。さらに、その側面に「あや」「あて」など女性の名前を刻んでいることから、この供養塔は女人講による奉納らしいことが窺われる。5【廻国供養塔】4の左隣にある。寛政三年銘。兜巾型石碑。願主は、牛飼村の(六部)小ヱ門とある。淨阿道智 禅士が開眼法要を行ったか。正面に刻まれた文字を見ても、どう読むのか悩むところだが、おそらく、「天明五年に小ヱ門が、大乗妙典を奉納する国廻りの旅を始めた、あるいは、終わらせた」ということなんだろうと思うが、はっきりとは分からない。正面上部に梵字を3つ確認。阿弥陀如来とその脇侍と分かる。6【百ヶ所観音巡礼供養塔】不動明王の堂宇の裏手にある。兜巾型石碑。弘化三年銘。願主は到阿念西法子。上部二ヶ所に盃状穴あり。なお、右隣は単なる墓石と見られる。7【普門品一萬五千部読誦供養塔】6に向かって右手の方にある。この一角の端にある。石碑は兜巾型。明和九年銘。願主は、良く見えないが、覚阿嶺音妙弥とあるか。正面上部の梵字はア。8【念仏供養塔】7の正面にある。兜巾型。天保十五年銘。正面に「南無阿彌陀佛」とある。謹書者は、(信州善光寺 別當大勧進 現住 大円覚院 権僧正)光純とあるか。別当大勧進は長野県善光寺のトップの役職名。光純は別当大勧進の八十四世だった。当地の牛飼村の人々が、わざわざ、このお坊さんにお願いして、正面の文字を書いて貰い、それを石工が刻み付けた様である。ネットで調べたところ、光純は、天保十四年に死亡している。なので、村人らが光純の揮毫を貰い、この石碑を作っている間に死んだ様である。